a-dollのブログ

忘れたくない日々のあれこれの記録

主の祈り(7)

外は猛暑。

冷房の効いた家の中で過ごせることを感謝する。

水が出なかったり家の中の泥をこの猛暑の中で掃除をする人々が大勢いる。

被害者や支援をしている人たちの健康が守られますように。

 

各地で37度の気温が記録されている。

暑いので夕方ぼーっとテレビでお相撲を見た。

名古屋場所横綱大関が故障続きで休場している中、若手が活躍して熱戦だったが、観客が暑そう。

この暑さに冷房が追いつかないのだ。

普段見られない団扇や扇子をぱたぱた仰いでいる姿が見るからに暑苦しい。

中にきちんと和服を着て座っている人もちらほら見かける。

まあ暑いのにようやるわ、と感心する。暑がりの私には絶対に耐えられない。

 

 

  *  *  *  *  *  *  *  *  *

 

 

主の祈り(7)

 

聖書 ルカ11:4

 

私たちの罪をお赦しください。私たちも私たちに負い目のある者をみな赦します。

 

4番目の祈り「日毎の糧を今日も与えてください」は生活の祝福に関する祈りだったが、5番目の祈りは「罪の赦し」に関する祈りで、これは霊的祝福をもたらす祈りである。

 

1、罪の告白に関する問題

以下のことに気をつけよう。

・罪を犯した時に言い訳や責任転嫁に逃げていないか?

それをしたのがアダムとエバ。

 人は言った。

「あなたが私のそばに置かれたこの女が、

 あの木から取って私にくれたので、私は食べたのです。

 ・・・・・・・

 女は答えた。

 「蛇が私を惑わしたのです。

 それで私は食べたのです。 創世記3:12、13

・被害者意識に捉えられていないか?

私たちは「◯◯にこんな酷い△△をされた」という被害者感覚は鋭い傾向を持つが、

「◯◯にこんな酷い△△をしてしまった」

または「神様に△△してしまった」という正直な罪の行為者としての自覚が薄れてないか?

 

2、罪の告白と霊的祝福

罪の告白は単に犯した罪の処理ということ以上の内容を含む。

 マルコ11:22-25によれば、

大いなる神による問題解決が起こる時に「恨み言」の解決は不可欠だと教えている。

 

3、罪の告白と神の赦しの関係

この祈りには、自分の罪の赦しを願う祈りに、自分もまた他人を赦しますから、という祈りが加えられている。

・キリストを救い主と信じたということは、神と他人への罪も持ったままでも罪の赦しは得るという福音の恵みの中にある。

・罪の赦しは得ているが、他人を許さない罪の未解決は御霊の実を結ぶ神との生きた交わりを喪失する。

主の祈りはこの喪失をしないための祈りである。

 ガラテヤ5:19-23

 

 

お父さんの好きな「文楽」

 私のお父さんの好きな「文楽

 

父が趣味に没頭している姿を見たことはない。

只々お商売が面白くて、他のことに頭や時間を費やすことは出来なかったのだと思う。

 

母は歌舞伎が好きで、それに関連して日本舞踊や三味線が好きだった。

私は母の要望で日本舞踊を習わされ、長唄の三味線も稽古した。

まあ嫌いではなかったし、長唄はすぐ上手くなって(自慢しいの癖が出た〜)「名取に・・・」とおっしょさんの声が聞こえて来たので止めた。

 

歌舞伎も母と観に行って以来歌舞伎の魅力にはまってしまったのだが。

同じくはまってしまったH子姉と一緒に特に上方歌舞伎を観た。

二人の歌舞伎鑑賞は初日のチケットを買うのだった。

初日は1幕少なくなるけれど、昼夜通しを同じ料金で観ることができた。

舞台装置のあれこれが上手く運ばないでモタモタするし、役者のセリフもprompterの声が大きかったりして、それも面白かった。

朝から晩まで中座や歌舞伎座に浸っていたのだ。

二人は「通(つう)」を気取っていた。

ようやる。

 

父は母が私に日本舞踊を習わせ、長唄まで習わせているので「芸者にさせようと思ってるのんと違いますか!」と母に小言を言っていた。

呉服屋が出入りするのも父は嫌いで、母は娘たちに着飾らせたいのに、父は華美なのを嫌った。

 

父は「文楽」が好きだった。

何故「文楽」かというその理由が泣ける。

父がまだ子供の頃、貧しい暮らしのうちに亡くなった母(私の祖母)が文楽が好きだったのだ。

金澤から大阪へ出てきて「文楽」というものを知った母に人形浄瑠璃を見せたかった、義太夫を聞かせたかったというのであった。

 

ところが私の母はあんな足元が頼りない人形の芝居は嫌いや、と一緒に行かなかった。

そういえば文楽の人形は右手と頭(かしら)を人形遣いが動かして、左手と足は弟子が使う。舞台の上で足は板につかない。

絶えずふわふわ浮いている。

それが嫌だというのだった。

 

私は単純だから文楽にもはまってしまった。

吉田玉男という人形遣いが素敵で、いつも花道のそば近くで観た。

人形浄瑠璃は人形が主役なのに、人形遣いについ目が行った私はその頃お年頃やった・・・。

それと何と言っても魅力的だったのは義太夫節と言われる浄瑠璃だった。

浄瑠璃は人形が演じる芝居の筋書きやセリフを三味線に乗せて歌い語る日本の音楽である。

それは歌うのではなく「語る」という。

全てのセリフを声を変化させて語る。

泣いたり怒ったり笑ったりの変化が面白い。

語る太夫さんは大きな体を揺すってオーヴァーアクションで語る。

大抵の太夫さんは顔もでかくて厳つい。

 

対照的に横に座っている三味線弾きは優男で、特に左手が優美に糸を抑え滑らせるその指が細く長くて(細かいチェック)何とも魅力的なのである。

太夫の語りを支える縁の下の力持ちが美しい優男。

この取り合わせの妙。

 

私のブログの読者は若い人が多いし、当然知っているだろうと思っていつも書いているけれど、81歳の私が書くこと全てを知っているとは思えないので、つい脱線して説明が長くなってしまう。ごめん。

例えば、太棹(ふとざお)というのは浄瑠璃の三味線で、糸も太く撥(ばち)も大きい。

私が長唄の稽古をしていたのは中棹。

浄瑠璃の太棹の音色は重厚でズシンとお腹に響く。

しびれるような魅力的な音色。

父が好きだった人形浄瑠璃。いつの間にか私は好きになっていたのである。

 

長い年月が経った今、A家へ嫁いだから呑気に三味線なんか弾くこともなく時が流れてしまった。

今も三味線は持っているが、皮は裂けて弾ける状態ではないし、私の手も指も頭もすっかり忘れてしまっている。

西洋音楽だけに関わっている今の私だけれど、父の思い出とともに耳の奥で太棹の音が懐かしく響く時がある。

 

 

弦の響きを歌声に

雲が広がってどんよりとして蒸し暑い。

この暑さの中を泥土の片付けをするのはどんなに大変なことだろう。

気の毒で言葉もない。

 

今日から「あなたに」の練習に入る。

8分の6拍子は皆苦手。

とにかく日本人だから先祖の血が邪魔をするのだ。

サラサーテの弦の響きをコーラスで歌うのは難しいものがある。

なんどもやり直し・・・だけど、私は楽しんでいる。

八十路も元気に過ごそう

暑い!

教会オープンチャーチまきばでの「歌の会」に出席した。

会費は百円でコーヒーとお菓子が出る。

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白いスカートを穿いて行ったが、ハンカチを膝の上に広げて汚れないようにしていたのに、コーヒーゼリーの1欠片がぽとんと落ちた。

しかも、よりにもよってハンカチの外に(ー ー;)

 

帰宅後、町内の「優しい体操」と「うたの会」に出席。

今日はサークルのフルコースをこなしたことになる。

最後の「うたの会」では近所の同い年の友達大勢に出会う。

どこも悪くないのに頭がふらつくとか、草抜きは嫌だからしないとか、手に力が無くなったとか、マイナーな話題ばかりで鬱陶しい。

その中でKさんは最近大阪市内の画廊を借りて水彩画の個展をした。

表題に〜八十路ひと区切り〜とあった。

ご主人を亡くされてからようやく元気になって個展をやるって立派。

斯くあらねばと思った。

お父さんの日曜日

先月末に、体調を崩して風邪を引いて熱を出して以来だらけている私の身体。

午前中は家事をせっせとするけれど昼食後は必ず昼寝。

ラテン系になってしまったのかな。

夕方までは読書で過ごし、夕飯を食べたら映画を1本見て一日は終わる。

夏中こんなで良いのかな〜?

 

  *  *  *  *  *  *  *  *

 

私のお父さんの日曜日

 

父は殆どの日曜日は家で過ごした。

散髪屋さんに行ったことは有っても、帰りに映画を観に行くというようなことはなかった。

覚えている父は、作業着を着て庭で農作業をしていた。

園芸が趣味だったのだ。

 

太平洋戦争が始まる直前に郊外に家を建て家族全員で疎開をした。

200坪の敷地だったので庭は充分広かった。

食糧難を見越して裏庭は果樹園にして、イチジク、柿、ぐみ、ユスラウメ、夏みかんなどを植えて残りは畑にして野菜を植えていた。

近所の農家の人に作り方を教えてもらったのだろうか。

それとも家の外回りの仕事をしてくれていた小父さん(ジューちゃん)が手伝っていたのか。

戦後の食糧難が終わった後の畑には花を植えて、やはり日曜日は土に親しんで作業をしていた。

母は「お花植えてくれはるのは良いけれど、汚れた服は脱ぎっぱなしやし道具もちゃんと片付けはれへん」と愚痴っていたけれど。

 

父の日曜日は楽しそうだった。

大きな甕に金魚を飼って餌をやったり、庭に出てくる大きなガマガエル(私の手のひらサイズでぶつぶついっぱい付いていて気持ちの悪いものだった)を手に乗せてご飯粒を食べさせていたり。

犬も可愛がって犬用のビスケットを買ってきて食べさせていた。

 

う〜んと・・・猫と父の記憶はない。

猫は常に家で飼っていたけれど、特別可愛がって膝に乗せるとかしなかった。

当時の猫は愛玩動物ではなくて、天井のネズミを獲るという役割が有ったし、充分餌も貰えなかったから、というのも家族はそれぞれ忙しくて猫のことはいつも忘れていた。

お腹がすくと、台所に居る誰彼構わず足にまとわりついてにゃあにゃあなく。

「あれご飯が欲しいの?」と誰かが気づいて、猫用の皿にご飯と鰹節削り(箱になっていて上についているカンナで削ると引き出しに溜まる)で鰹節を削って乗せてお醤油をかけてかき回した「猫まんま」を与える。

猫はくっちゃくっちゃ食べて少し残す。

しばらくしてみると、残ったお皿のご飯はぱりぱりに乾いてお皿にへばりついているのだった。

行儀が悪くて、卓袱台に魚料理の皿を並べる時は誰かが番をしていないとさーっと咥えて逃げたりした。

そんな飼われ方だから、猫は自分で鼠をとったり外で鳥の雛を捕らえて食べたりする必要が有ったのだ。

犬は当然ガードマンとしての役割が有って飼っていたのだった。

今日は脱線してしまった。

つづく

 

お父さんは子煩悩 つづき

今朝は朝刊が休みなので、朝食後涼しい間に庭掃除をした。

小さな芝刈りカッターで風にそよいでいる母子草や花センブリもなぎ倒して、きれいに刈った。

 

暑くなってきたので作業はそこそこにして家の中の掃除。

洗面所の掃除、水垢を取る。

自分一人が使う場所だからつい掃除がおろそかになって、よく見ると(よく見なくても)汚いm(_ _)m。

たまに若くて目がふつうに見える客が使うから「汚いな〜」と思っただろう。

しっかり働いて汗を沢山かいたのでシャワーを浴びた。

午後は昼寝。クルミも昼寝。

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お父さんは子煩悩 つづき

 

終戦後の食糧難がひと段落したら、家ですき焼きが時々食べられるようになった。

お肉屋さんにお使いに行って「牛肉400匁下さい」と言って買ってくる。

グラムに換算したら1500グラム。

家族は常に8人ぐらい居たからお肉も沢山要った。

後は糸蒟蒻と葱と麩と菊菜、焼き豆腐。

鍋奉行はもちろん父。

美味しく焼いてくれて「はい、このお肉できているよ」と次々食べさせてくれた。

生卵をくぐらせて食べる。

それはそれは美味しかった。

 

その頃、父が料亭で豚肉の水炊きを覚えてきた。

大阪では今まで豚肉はあまり食べなかったから、これは子供達に食べさせてやろうと思ったに違いがない。

昆布を敷いた鍋に水を張って、白菜と豚肉と木綿豆腐を入れて炊いたのを引き上げて、大根おろしと葱とお酢とお醤油と七味唐辛子をかけて食べた。

今だったらどういうこともない鍋料理だけれど、何もない戦後は本当に美味しかった。

今も私は豚肉の水炊きが好きで、鍋に入れる野菜も白菜と豆腐だけ。

生椎茸や葱やお菜のあれこれ入れるのは好きじゃない。

父が食べさせてくれた水炊きが一番おいしかったと思える。

 

時が移って、私が結婚した相手は全く鍋奉行の仕事は出来ない男であった。

新居に彼の友人4、5人を招いた時、私はすき焼きを用意した。

お鍋が熱くなっていても男達は誰も何もしない。

ただ座って見ているだけ・・・。

「ええ〜誰もなんでせえへんの?」

うちの夫は特別で、後の誰かは出来るかと想像していたけれど、皆、揃いも揃って私がお肉を焼くのを待っているのだ。

仕方なく私が皆の分を父仕込みの腕前で美味しく食べさせたのだが。

 

話は又飛ぶが、今私が仲良くしている高校の同級生達は鍋奉行が多い。

いつもお鍋を食べる時、美味しく食べさせてくれる。

「今入れるからすぐに引き上げや」とか「先にこれを入れて出しを取らなあかん」とか「それまだ入れるの早い」とかうるさい。

彼らと食事する時は言われる通り食べていたら良いから楽。

 

夫の世代と私の世代のこの差は何だろう。

年齢は6歳違うのだけど、夫の友達はいわゆる良えしのぼんぼんで跡取りとして大事に大きくなった男達が多かった。

母親や使用人が全部手取り足とり構って食べさせたのかな?

私の世代は戦後の食糧難のときに、食べ盛りなのに嫌という程苦渋を舐めてきたから、食べることに貪欲なのだ。食材を選んで美味しく調理し、食事を楽しむことに努力を惜しまない。

鍋奉行が出来ない男は軽蔑される世界なのである。

 

私の父も幼い頃より貧しく苦労の数々を味わってきたから、子供達と豊かに美味しい物を食べるのを喜びとしていたのだろうと思う。

つづく

 

食事当番

久しぶりの太陽だ。

嬉しくて元気になって教会へ行く。

今日のお昼ご飯は私たちシルバーグループの当番だった(私が最高齢者)。

と言っても、私なんかは新しく雇ったお手伝いさんみたいなもので、うろうろと足手まとい。

殆どはMさんはじめベテランの方が下準備をしてくださった。

献立はちらし寿司。

私たちは薄焼き卵を家で作って持って行った。

後の準備は全部Mさん。

雨が止んだので教会の礼拝は大勢で昼ごはんも大にぎわいだった。

「楽しかったわね」といつもの席で私たちが作ったお寿司を食べる。

 

豪雨の被害は痛ましい。

一日も早く元の生活に戻れますように。