a-dollのブログ

忘れたくない日々のあれこれの記録

夫が風邪を引いた

ページビューを見たら、いつの間にか50000を越えている。日々のつまらない出来事をぐじゃぐじゃ書いているのに、こんなに読んでもらって申し訳ないように思う。
姪の様に「続きが楽しみ。」なんて言ってくれると調子に乗ってまた書いてしまうのだけど。
さて、その昨日の続き。
郊外に引っ越して家族全員がカルチャーショックを受けたのだけど、母なんかもリサーチがちゃんとしてなかったのか(多分そこまで調べる余裕も無かっただろうけど)予定外の思惑はずれが沢山有ってさぞ困ったことだろう。
子供の学校の事もそうだけど、瓦斯、水道が無かったことはぼやいていた。ご飯は大きなかまどで薪で炊いたからおいしくて文句は無いけれど、お茶を入れるにもカンテキ(七輪)で火を熾さねばならない。
今までマッチを摺ったらすぐ火を使えたのにである。
水は井戸水、家と外に3本の井戸を父は掘らせた。最初のは家中のトイレやお風呂にも行く様にカランも設備してあったが、赤く鉄分が含まれていて濾して使わなくてはならず、飲み水には適さなかった。もう1本は美味しい水だったが、湧く量が少なく、地下水にも掘る場所に寄って水脈が違うのだ。
でも、夏の井戸水は冷たくて冷やして食べたトマトのおいしかった事。反対に冬は温かかった。
多分、日常の買い物も不自由だったことだろう。今までの様に空堀市場がそばに有るわけ無いし。
そのうち戦争が始まって、どこに居ても全ての物資や食料は無くなったから、裏庭で野菜を作っていた分、鶏を飼っていた分、近所で分けてもらえた分、何とか飢えを凌げたから田舎が良かったのだ。
一番食糧難の時は戦後すぐで、多くの人々は着物を持って行き農家でお米と交換したものだが、我が家は裏の農家で現金でお米を買った。「奥さん、今夜来とくなはれ。」と耳打ちされ母が夜行くと旦那は居なくて、内緒で倉庫に有るお米を持たせてくれ、代金は彼女のへそくりになったのだった。
そんな苦労が有ったにせよ、家族が空襲で逃げ惑ったり、また集団疎開の辛さを経験せずに済んだのも田舎に引っ越して来たからで、父は正しい選択をしたと思う。
私の苦難時代は今日は書けなくて、明日をご期待下さい。
現実の我が家は、夫がやっぱり風邪を引いて熱が出た。大したことが無いのに、よれよれになっている。
手術を延期するかどうかは明日、泌尿器科の診察を受けてから先生が決定して下さることになった。