a-dollのブログ

忘れたくない日々のあれこれの記録

故郷の家は

3年前に壊してしまった実家の建物。Google Earthではまだ健在だ。黒い屋根と洋館の赤い屋根と鬱蒼とした庭木が写っている。
「もしかしたら未だ建っているのかも」と娘が言うので確かめに行った。
亡くなった父が、昭和16年(1941年)、真珠湾攻撃から勃発した太平洋戦争を危惧し、郊外に200坪の土地を借りて家を建てて大阪市内から移り住んだ。
周りは田んぼばかりで、8軒程の住宅が並んで建っているだけ。
近鉄電車の駅から子供の足で10分程歩く。途中で川が流れていて朱塗りの橋が架かっている。その橋を渡った所にお宮さんが有って、寄進した人の名前が彫ってある古びた石の垣根を右手に見ながら歩いて行き、曲がって突き当たった所が新しい家だった。
お陰で、幼稚園も小学校も全部電車に乗って通う羽目になって、子供心に辛い物が有ったのだが、空気も良いし、自然が一杯で楽しい田園生活を満喫出来た。
大阪市内に住んでいたら、集団疎開にも行っていただろうし、食料調達も大変だっただろう。
私は22才で結婚するまでここで暮らしたので、懐かしさがこみ上げて来る。
今日、お宮さんの所から狭い道を曲がりながら「お母さん、家有る?」と娘が聞いた。100メートル程向こうの突き当たりを目を凝らして見たが、やはり家は無かった。
地主さんは1刻も無駄にせず、簡易な家を建てて売ったか貸したか知らないが、見知らぬ家がそこに存在していた。
並んだ住宅の途中に榎の大木が有ったが、それも伐採されてすでに無く、家の跡地には地面一杯に小さな家が沢山建って、緑はまったく無くて、殺風景なごじゃごじゃした住宅地になってしまっていた。
ご近所のYさんもSさんもNさんも代は変わっているだろうけれど、立て替えたりして住んでおられる様子だった。
60年前にメダカを獲った小川は陰も形も無い。せせこましい車も通りづらい息の詰まりそうな住宅地になってしまっていた。
お陰で、懐かしいとか哀しいとかの感情はわかず、さっぱりあきらめの付いた気分。
久しぶりに娘と冒険ドライブをして気分が晴れた。