a-dollのブログ

忘れたくない日々のあれこれの記録

戦時中の事

朝のドラマは今戦争の真っ最中である。
空襲と食料不足の為に、疎開を余儀なくされる。
疎開先はムカデがでる様な田舎の襤褸家である。
夫の戦死の知らせも入って可哀想だ。頑張れ糸子。

今日から私は忙しい日々が終って暇。
子供の頃の戦時中を思いだしている。
昭和16年(1941年)大阪市内で住んでいた私たち家族は、近鉄南大阪線の沿線に家を建てて引っ越しをした。
都市ガスが無い、水道が無い、と母は不自由を託っていたが、7軒ほど建っている住宅地の周りは田圃だった。
父は、戦争が始まると食料も無くなるだろうから、と田舎に引越す決意をしたのだろう。
新築の家に引っ越しをしたのは、4月頃。
たんぼの畦にれんげ草が沢山咲いていて、摘むのが嬉しかった。
私は次の年から幼稚園に行くことになった。
村に幼稚園が無いので、電車に乗って3つ南に有る幼稚園に通うことになる。その幼稚園を卒園すると、その村に有る天王寺師範の第二附属小学校に入れる、と母はどこかで情報を得たのだった。
小さくて蚊トンボのようにへなへなだった私は、頑張って通った。
朝、プラットホームで母と待っていると、電車には、F先生が乗っていらして、幼稚園まで引率して下さるのだった。
同じ駅からはIくんと2人だけ。
電車には数人園児がすでに乗っていて、次の駅で待っている園児を乗せるのだった。
私は1年だけの幼稚園生活だった。
並ぶ時に手をつないだ男の子につねられたり、頭を叩かれたり、寒い朝におもらしもしたけれど、頑張って通った。
F野先生が優しくて大好きだったからである。
強く残る思い出に、12月8日は「日の丸弁当」を持って行かされたことがある。
酸っぱい梅干しはまだ食べられなかったから、母が梅干しを細かく刻んでお砂糖をまぶして、白いご飯の真ん中に乗せて持たせてくれた。
まだこの頃は、白いご飯が食べられたのだ。
体が弱かったから、卒園間近のお遊戯会の前に風邪を引いて休んだ。
お遊戯は得意だった私は、先頭で踊る筈だったのに、治って出て行くと、他の子に変わっていて私は後を付いて行く事になる。
生まれて始めて悔しい思いを経験をしたのだった。
へなへなだけど勝ち気だったのだなあ。
明日につづく。