a-dollのブログ

忘れたくない日々のあれこれの記録

戦時中の食料事情

田舎に引越したので、家の敷地は広かった。
裏庭には、食用の足しに、柿、無花果、ぐみ、すもも、夏みかんなどの果樹が植えてあった。
その裏に、畝を作って、かぼちゃやお芋、トマト、胡瓜など、素人でも収穫出来る野菜が植えられていた。
鶏小屋で、鶏も飼った。
度々ブログに書くので、又か〜と思われるかも知れないけれど、鶏のお陰で、たまに動物性蛋白質を補給出来たのだ。鶏が卵を産まなくなったら、私たちはご馳走にありつけたのだ(涙)。
その代わり、卵はしばらく無し。
一緒に電車で幼稚園に通っていたI君の家は、精肉業だったので、極くたまに内緒で牛肉を分けてもらった。
庶民の口に入らない牛肉は誰が食べていたのだろう。
一度、近所の海軍中尉のお兄さんに、海軍の宿舎に連れて行ってもらったことが有る。食べた事も無い美味しい西洋料理が出されて、びっくりした。
勿論大喜びで食べた。
この時帰りに人形を買ってもらった。2年生の頃である。
兵隊さんはお金持ちだな、という印象を抱いた。


配給といっても僅かだから、沢山の子供を飢えないように両親は大変
だったと思う。
お米は配給だけなので、家族平等に食べる必要がある。
お変わりは出来ないから、盛り切り。丼に盛ってもらった分だけだ。それもだんだん、混ぜ物(麦、粟、豆)で量を増やし、その内雑炊になった。
私は栄養不足で、顔にはたけ(顔の湿疹)を作っていたし、あくち(口角炎)も切れていた。
珍しく支給された配給の鰊の干物が腐っていたこともあった。
C姉と母が「口がもにゃもにゃするから、やっぱり食べたらあかんわ」と残念そうに捨てた。
本当に食料が乏しくなったのは戦後で、夏休みには兄妹は全員で淡路島へ疎開した。得意先の好意と店の坊さんの親元が淡路島で、お米を分けてもらえたし、魚も充分取れたからである。