a-dollのブログ

忘れたくない日々のあれこれの記録

礼拝メッセージより

「キリストの十字架と自分の十字架」マタイ16:21−25
ペテロの生涯より

イエス・キリストは、自分がエルサレムで多くの苦しみを受け、殺され、3日目に甦らなければならないことを、弟子たちに示し始められた。21節
ペテロは怯えてイエスをいさめ始めた。「主よ、そんなことがあなたに起こる筈がありません」といった。22節
しかし、イエスはペテロに「下がれ。サタン。わたしの邪魔をするな。」と言われた。23節
 それから、イエスは弟子たちに言われた。「誰でもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい。24節
イエス様の言葉を見失う危険性。

1、十字架抜きの信仰の危険性。
エルサレムでの十字架の苦しみを否定するのはサタン的。日本は神無き風土である。神を信じるには時間が掛かる。
 
2、神の御旨から外れる危険性。
ペテロがイエスに言ったのは悪意ではない。十字架は罪人が受けるものだからペテロは不安に思ったのだ。
しかし、ペテロの善意は余計なものである。
善意が神の御旨に叶っているか。

3、十字架を負おうとしない危険性。24節
しんどい、病気、試練などを十字架と思うのは勘違いで、これらは重荷である。
重荷は降ろす、
十字架は負うものではないが、イエス様は、愛故に、人間を救うために敢えて負って下さった。
愛故の使命なのである。
エリザベスサンダースホームを作った澤田美喜さんは、岩崎弥太郎の孫だが、結婚した相手がクリスチャンでご自分もクリスチャンになられた。
戦後の混乱期のある日、満員電車の網棚から紙に包まれた黒い肌の嬰児の遺体が美喜さんの腕に落ちて来て、殺人の嫌疑をかけられた。
一時でも母と間違われたのは神からの使命と受け止め、多くの孤児たちの母となる決心をした。
十字架を降ろしてはならないと思ったのである。