a-dollのブログ

忘れたくない日々のあれこれの記録

淡路島へ行ったこと

70年前の話
終戦の次の年、私は小学校4年生だった。夏休みの宿題に書いた「淡路島へ行ったこと」という作文が残っている。最後は家に帰った時の母にあった喜びで結ばれている。
家は、涼やかに片付いていて、北の縁側には岐阜提灯が下がっていた。なんて美しい家なんんだろう!と久しぶりに帰った家に感動したのだった。
大勢の食べ盛りの子供達が留守で、母はほっとして、一夏をゆったり過ごせたのだろう。
たちまち、この静寂は破られたのだが。

夏休みに淡路島へ行ったのはこの年が3度目だった。
終戦の年を除いて戦争前にも2度行っている。
淡路島に行くきっかけは、C子姉が結核に感染し転地療養を必要としたので、一人でしばらく滞在していた、と大きくなってから聞いた。
当時、結核は死病だったし、治るには栄養と美しい空気が必要だった。
父は子供達の健康のために、子供全部(妹は小さかったのでお留守番)を夏休みに連れて出かけたのだろう。

1年生の時は、旅館(八木旅館?)に泊まった。
この時は明石駅から船着場まで、人力車に乗せてもらった記憶がある。
2年生の時は、学生向きの宿「寒伝館(さむでんかん)」。
数年前、夫が存命中に娘と3人で水仙を見に淡路島に行ったことがった。
「寒伝館」はこの辺りやったかな〜と探すと、昔のままの旅館がちゃんとあって懐かしくてロビーに入って案内を乞うたが、ロビーから真っ直ぐ大きな階段があって昔のままだった。
出てこられたご主人は戦後生まれだったので、その頃のことはご存知なかったが、多分戦争のせいで泊まり客(学生)がなく、私たち家族に泊まらせてくださったのかと思う。
父は本当に子煩悩だったから、子供の健康のために手を尽くしたのだった。
H子姉によると、料理は八木旅館から運んでもらっていたそうだ。
私は滞在中何を食べたか覚えて無いが、大きなスイカを食べたとき、兄が気取って「刃物をお借りできますか?」と女中さんに聞いたら、「ええ?刃物でっか!!」と大げさに驚いたのを覚えている。

淡路島行きは3度で終わった。
5年生の夏やすみは、どこにも行かなかった。
何故なら司令塔のC子姉が結婚したからであった。父の溺愛する長女C子姉のお婿さん選びは大変だったろう。
義兄は戦地から復員したばかりだった。
C子姉が新しい家庭を持ったことで、母を補佐する娘が居なくなった。
2番目のM子姉は家事を全くせず、ピアノばかり弾いていたから・・・。

つづく