a-dollのブログ

忘れたくない日々のあれこれの記録

私のお父さん 番外編

私のお祖母ちゃん

 

暑くてパソコンに向かうのもしんどい。

目が腫れているので、キーボードの打ち込みも間違いばっかりでやる気を無くす。

 

ぼーっと昔のことをあれこれ思い出していたら、お祖母ちゃんが現れた。

お父さんはちょっと休憩してもらってお祖母ちゃんを思い出そうと思う。

 

今日の主人公のお祖母ちゃんは、父にとっては妻の母なので義理の母になる。

このお祖母ちゃんは私が生まれたときすでに72歳だった。

この人は和歌山根来の出身で名前は「山上よしの」という。

元治元年(1864年)生まれ。

因みにこの年、京都では「禁門の変」が起きている。

 

14歳でお嫁に行ったが「格式が高く堅苦しい家風が我慢でけへん」と婚家を飛び出したそうな。といって実家には戻れず、大阪に出て来たそうな。

わがままで自己の意思を貫き通す無鉄砲な女性だったと思う。

 

やがて夫(母の父、即ち私の祖父)と出会う。当時としては晩婚だった。

夫は背が高くて優しい人だった。やがて二人の娘(ハツと榮)も生まれて幸せだったのに違いない。

 

夫「山上太四郎」は石川県金澤市の出身で、明治維新の後いろいろな事が起こって、家(両替商)が没落し、大阪に出てきて商売を始めたが、ボンボン育ちで不慣れなことで上手くいかなかったそうな。

結婚した頃は市電の運転手をしていたと聞く。

 

穏やかに暮らしていたのに、夫「山上太四郎」は病を得て死んでしまった。

昔は人がすぐ死んだのである。

よしのさんは家が絶えてはあかん、と長女(母の姉)に後を継がせようとした。

そこで養子さんを迎え入れた。

お婿さんは次男だったから養子に入ることが一つの道であった。

この人は大学まで出ていたし、大手の会社に勤めていたのに失敗。

生きるのが下手な人だった。

 

孫も生まれたのに、間も無く孫も長女も死んでしまう。(ー ー;)

 

ところで、二人の姉妹の下の娘(私の母)はどうしたかというと、お嫁に行って幸せに過ごしていた。

お嫁入り先は、姉のお婿さんの弟だった。

 

私の父は兄の妻に可愛い妹が居るのを知って、プロポーズしたと聞く。

大正10年(1921年)9月の十五夜の日に結婚式を挙げたそうな。

 

 

さて、祖母よしのさんは娘が死んでお婿さんには新しく後妻さんが来たので、自分の家なのに意心地が悪くなって家を出た。

よく家出をする女性だった・・・。

家出はしたけれど、行き先は自分の下の娘の嫁ぎ先しかなかった。

娘の家は円満で夫の事業も順調だし、子供が6人も居て皆健康だった。

 

娘の夫(私の父)は「うちは小さい子供もいるし、孫の世話をしながら離れで住みはったらよろしい」と言ってよしのさんを受け入れた。

 

以来、離れ(納戸のように使っていた部屋)に山上家の仏壇を置いて、押入れの中には黒光りのするタンスを入れて暮らしはじめた。

その頃のよしのさんは80歳近い老人で腰は90度に曲がっていた。

足は丈夫でしっかり歩いていた。

いつも黒っぽい着物を着て、白い髪の毛は後ろにくくって丸めてあった。

黒い大きい石ころが転がっているイメージだった。

これといって家事を手伝う様子もなく、いつも離れにチンと座って針仕事などをしてはった。

ある日など、学校から帰宅すると家はひっそりとして誰もいない。

母もお手伝いさんも留守で他の兄姉もまだ帰っていない・・・それでも離れに行くとよしのさんがいて「おかえり」と言ってくれるのでほっとしたものだ。

留守番の役には立っていたのだ。

f:id:a-doll:20180724113036j:plain80代後半のよしのさん。

小さくて隣に座っているJ兄の半分ぐらいしか無い。

つづく