a-dollのブログ

忘れたくない日々のあれこれの記録

私のお父さん 生い立ち 2

昨日は地響きのするPL教の花火を聞きながら(見ながらではなく)、ブログを書いていた。

中々の出来や〜とアップして寝たが、朝起きてみると何故か昨日の分はアップされていず、さがしてもどこにもなかった。(時々やる)

何かお父さんの気に入ら無いことでも書いたかなあ?

今日は仕切り直しでもう一度書こう。

父の座右の銘「終始一貫」。私も途中で投げ出してはならない。

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父の兄弟 中央がR 後列孝二(おしゃれなハイカラーのシャツを着ている) 四郎 前列才一郎(手に持つは帽子か?) 赤ん坊の八郎 乗三

 

父の母すては能登の出身で、家は裕福であったらしい。

すての弟は後に校長先生になった。

すては一人娘で大切にされて成長し、その頃流行っていた浄瑠璃を習っていたらしい。

17才で嫁入り。

8人の子を産んだ。

厳格な姑に仕えた・・・。

 

母すては貧しい生活の不足を補うために近江の織物をして収入を得ていた。

そんな中で不治の病に倒れた。

看病をするRに、浄瑠璃の中に出てくるセリフや名文句を引用して話をした。

例えば、泉州信太の森の狐の子別れの語り。

葛の葉という女は実は狐だったので子供を置いて去らねばならない。

「恋しくば尋ね来てみよ和泉なる信太の森の哀れ葛の葉」と書き残した。

残した子は安倍晴明であるという伝説の話。

その中のかたりに、

 どうりで狐の子じゃものと 人に笑われそしられて の文句。

別れる子供に言い聞かせるくだりである。

母親はRにお前が人に後ろ指をさされるようなことをしてくれるなと諭したのである。

お前は子供の中でも一番苦労をさせて気の毒やった。

どうか決して悪いことをしてくれるな、立派な人間になって成功しておくれ、と繰り返し諭したという。

 

長い闘病の末、ついに別れの日が来た。

大正3年母死去49才であった。

 

5才の弟と二人取り残されたが、四兄(辻四郎はその頃金沢第一中学校へ通っていて成績優秀だった)ので養子先の父が、そんな良い子の弟なら是非うちに養子に欲しいという呉服屋さんとの話をまとめてこられ、八郎は金沢へ養子に行くことになった。

この時の別れも辛い話で「お兄ちゃんのとこに居てる〜」と泣いたという。

小さい時になんども聞かされた悲しい話。

この小さな弟はやがて金沢第一中学校を卒業し、大阪大学に入学、卒業後は学校に残って助手をしていた。

支那事変が始まると鉄道隊の中尉として出征。

帰ってきた時には金鵄勲章なるものをもらっていて仏壇に供えていた姿を覚えている。

しかし、現地で風土病にかかって癒えず、昭和22年35才の若さで惜しくも亡くなった。

 

さて一人になったRは振り出しに戻って就職活動を始めた。

次の奉公先の主人は理解ある人で夜学へ通わせてくれた。

英語と簿記を学んで、帰ってからも読書に励んだ。

学問に飢えていたのだった。

しかし、過労と栄養不足のため脚気になった。

主人は優しい人で自分の別荘に水撒き要員として静養させてくれたが治らなかった。

原因は栄養不足なのだから治る筈が無い。

 

その頃、長兄と次兄はようやく落ち着いて家庭を持っていた。

次兄は堺の刑務所の看守になって堺に暮らしていた。

お店でお金を借りて兄の家で養生した。兄に経済的な負担を掛けたくなかったからである。

嫂は優しい人であった。

栄養のある食事を作ってくれてたちまち回復したのである。

 

ようやく本格的な将来の目的を定めて歩き出す時がやってきた。

17才になっていた。

つづく