私のお父さん つづき 旅行に連れてもらったこと
気がついたら8月は残り10日になってしまった。
余りの暑さに何もせずにぼーっとしていた日が多かったから。
夏休みの宿題が残っている感じだけれど、まあ9月も暑い日が有るしゆっくり続きを書いて行くことにしよう。
昔の親は嫁入り前の娘には厳しかったと思う。
うちの父も例に漏れず、どころか世間以上に厳しかった。
学校行事は別として、友達との旅行は許してもらえなかった。
その代わり父と何度か旅行をしている。
その旅行には母は全く同行せずお留守番だった。
旅行に行くのが面倒くさいのか、静かになった家でゆっくりしたかったのか、主婦が家を空けるのはいけないと思っていたのだろうか。
それが晩年には毎年金澤へ父と誰かお供を連れて出かけている。
何でやねん?と思ってしまう。
母については又ゆっくり書きたいと思っている。
脱線してしまったけれど、父は反対にまめ。
お商売が忙しいのに娘たちを連れて旅に出た。
*淡路島へ
終戦の年を挟んで4回淡路島へ連れてもらった。
私が小学校1、2年生と、4、5年生の4回。
これは旅行というより食糧難のために夏休みを利用してしばらく滞在していたのだ。
C子姉をリーダーにして兄妹が戦前は旅館に、戦後はもっと長くお得意先の2階を貸してもらったりして兄妹が自炊して暮らした。
その往復には父が一緒に居た。
明石から連絡船に乗って江井という漁村だった。
新鮮な魚が食べられるし、お店の丁稚さんの出身地なのでお米を工面してもらえたし、たまには牛肉も届いたように思う。
父は仕事があるので一人大阪へ帰って行き、また迎えに来てくれたのだが、帰りには鞄の底にお米を詰めて居た。
お米は配給だし、食べ盛りの子供が多いし、配給だけでは飢えてしまう。
家族を餓えさせない為にに父は苦労したのだ。
そんなことは気にもしないで私たちは海で泳いで、夜はトランプをして遊んだり(停電が多かったけれど)呑気に夏休みを楽しめた。
*白浜へ(1948年)
5年生の時、夏休みに4人姉妹を連れて白浜へ遊びに行った。
C子姉ちゃんは結婚して子供が居たし、兄は京都に下宿していたし、女の子4人では淡路島へ行かせられなかったのだ。
この白浜行きではちょっとした事件が有ったけれど、何度も繰り返しブログに書いているのでここでは省く。
*金澤へ(1955年)
H子姉、と私、妹S子の3人を連れての金澤のお墓まいり旅行。
金澤の宿では、大きな炬燵やぐらを囲んでお布団が4人分敷いてあった。
春休みだったけれど、金澤は寒くて次の朝起きたら雪がたくさん積もっていた。
父は先ず靴屋さんに連れてくれて、妹はレインシューズを、私と姉はビニールの靴カバーを買ってもらった。
お墓は山の中腹に有るので雪の中を歩くために必要だった。
お墓まいりの後は東尋坊に行ったり温泉に泊まって(芦原温泉と山中温泉やったかな~ちょっと忘れた)。
父と娘3人の旅。
*東京へ(1958年)
H子姉が結婚した後に妹と2人で群馬県の水上温泉に行って帰りに東京見物。
この時、岡の伯父さん宅へ行く。
これは1958年の写真だけど、その頃の風俗が分かって昔の写真って面白い。
まだ和服の女性が多いし、女性の洋服は今のと余り変わらない。
フレヤースカート、ウエストにベルト、スカート丈も今とほぼ同じ。
小ぶりのハンドバックを持っている。
男性はスーツにネクタイ。
つづく。