暖かくて春がもう本当に来たみたい。
庭の鉢植えの「金のなる木」の蕾が開いた。
日曜礼拝メッセージより
「父よ。彼らをお赦しください」
聖書 ルカ23:33-38
中西牧師は説教の初めに言われた。
人は生きて来たように死んでいく・・・多くの人の死に際に立ち会った経験からの実感である。
イエス様の死に様は、全生涯がこの思いの中のような生き方を表すものであった。
キリストは十字架に両手を釘打たれたのち、十字架は立てられた。
その時発せられたのがこの言葉である。
この言葉が伝えることは。
1、キリストの完全な愛
心底許された神の愛。
敵をも許すとりなしの祈りに神の愛がある。
2、キリストの完全な赦し
原語のアフィエミ=赦しは帳消しにする(無かったことにする)という意味である。
人間には赦せない現実がある。
恥ずかしいと思える記憶もある。
キリストは「命の書」の記録からも全て消し去ってくださる。
一切罪なし!
わたし、このわたしは、わたし自身のために
あなたのそむきの罪をぬぐい去り、
もうあなたの罪を思い出さない。イザヤ43:25
3、キリストの完全な救い
父よ。彼らをお赦しください。
彼らは、何をしているのか自分でわからないのです。ルカ23:34
彼らとは誰か?
知らないと見捨てて逃げた弟子たちか、良心を売って判決を下したピラトか、釘を打った兵士だろうか。
2000年前のこの場にいた人々だけだろうか?
バッハのマタイ受難曲は、キリストの受難を歌い上げているが、その中に「誰が十字架につけたか?」と問いかけ「私がつけた」と答えるところがある。
バッハは自分の信仰告白をしたのである。
時間を超えて、それはあなたであり、私でもあるのだ。