a-dollのブログ

忘れたくない日々のあれこれの記録

カーテンの縫製

やっとレースのカーテンが出来た。うちの家は天井が馬鹿高くその上カーテンレールが天井に付いているので、2メートル60センチの長いカーテンが要る。
ガーッとミシンを掛けていると、昔公団住宅に住んでいた頃、お隣のNさんが内職にカーテンを縫っていたのを思い出した。
動力ミシンを駆使して1日中ガーッと縫う音が響いていた。男の子が2人居て、おしゃれもせずに内職に精を出す日々を過ごしていた。
或る日、Nさんは子供の学資の足しにするには内職では間に合わないと、保険のセールスを始めた。
その日から彼女の人生に変化が起きる。日増しに美しく変身して忙しくなり外泊する日もあった。どれ位経っただろう。或る日彼女は夫に離婚を迫られ子供を置いて出てしまった。残った父子も転宅して行って後の事は知らない。
あの頃(1960年代)女性が収入を得るのは内職しか無く、外で働くのは難しかった。大抵の主婦は安い手間賃で内職をして居たのだった。
Nさんがその後どうなったかは知らない。
保険のセールスが悪いと言ってるのではないが、家庭を崩壊した例が多い。
今、思い出すだけで数人の知り合いが突然お金が入って生活がハデになり、流行のドレスを身にまとい変わってしまった。
堺に住んでいた頃、マンションの4階のMさんは、もっさりしていたけれど子供が2人居て良いお母さんだった。この人も毛虫が蝶になる様に突然変身して夫に放り出された。保険のおばちゃんになっていたと近所の噂で知った。
最初は、お金が欲しくて始めたセールスのつもりでも、自分の力でお金を得て、美しくなれると外の世界に免疫が無いだけに、誘惑に負けて現実が解らなくなるのだ。折角可愛い子供も授かっているのに、家庭を壊しても違う道に走ってしまうのだ。
その頃、有る所で彼女を見かけた。ご主人じゃない男の人と旅行する様子で、私に気付いても悪びれるどころかどこか誇らしげであった。
「どう?貴女には出来ないでしょ」と言いたげであった。出来ない出来ない、私はあかんたれだから飛び出す勇気も根性も無い。第一子供を置いて飛び出るなど想像も出来なかった。
生涯ノラには成れなかったけれど、出無精の私だからこれで良かったのだと思う。