a-dollのブログ

忘れたくない日々のあれこれの記録

初夏の爽やかな日曜日。娘と二人で歩いて教会に行く。
今日のメッセージは、ルカ23:39〜43より。
イエスが十字架につけられ、その両側に二人の犯罪者が同じ様に十字架に掛けられた。
その内のひとりが、死刑のぎりぎり前に救われて、天国に昇ることが出来た。
最悪の罪人なのに、どうして土壇場で救われることが出来たのか。
先ず罪を認めたこと。41節
信仰の告白をしたこと。42節
この2つは、どの時代どの状況でも救われるための条件なのである。
聖書に置ける罪とは、いわゆる刑法上の罪だけではなく、原罪(神との関係を持たないこと)を指す。
最後の瞬間でも救われるのである。
そして最大の不安(死の不安)でさえ救われる。
イエスは彼に云われた。「まことに(アーメンの意味)、あなたに告げます。あなたはきょう、わたしとともにパラダイスにいます。」43節
悪人は最後の瞬間に救われてどんなに嬉しかったことだろう。

今日は聖餐式が有ってそのあとに献金袋が回る。
献金を捧げる時の「感謝の祈り」の奉仕当番だった。
ところが、先週の週報に予告されていたし、今日の週報にも書いてあるのに、私は見ていなかった。
司会者に名前を呼ばれてびっくりした。
宿題をしていないのに、突然指名されて答えなあかん状況の様なものだ。
献金袋を受け取るまでの間、頭を巡らせて考えをまとめる。神さまに緊急にお祈りをする。無事にお祈りが出来ます様に、と。

お祈りはどうにか終えた。
娘が後で云った。神さまに捧げる祈りは、会堂に集まっている皆に聞かせるためで無く、神さまが聞いて下されば良いのであると。
教訓。週報にはしっかり眼を通すこと。いくら多忙でも言い訳にはならない。

午後、甥Yが立ち寄ってくれた。
彼は昔から近くを通ったからと良く来てくれる。今日は87歳になるC姉からの言付かりもの、アルバムから剥がした古い写真を数枚届けてくれた。
私が幼い頃の家族の貴重な写真である。
始めて見た写真も数枚有った。私に持っていて欲しいとのことである。これは暇を見てスキャンをして姉妹たちに送る予定にしている。
姉にお礼の電話をしたが、電話口には出てくれなかった。
写真は左からM姉、妹、C姉、H姉。昭和21年(1946年)夏の日縁側で。