「私のお父さん」で少し登場した兄。
ついでだから少し思い出しておこう。
兄とは9才年が離れていた。
6人兄妹といっても女の子が5人。
たった一人の男で跡取りとして大事に扱われて、母や祖母から溺愛されて大きくなった。
終戦の時は17才で、父は兵隊に取られないように手を尽くしていた。
代用教員としてどこかの小学校に勤めていたように記憶する。
と言っても、戦争は激しくなってそのうち徴用されるかも知れない、お別れになるかもしれないと最後の家族の写真を撮ったのがこの写真。
灯火管制の中、夜、写真屋さんが来て家族全員一張羅を着た。
「ハイ撮りますよ」と写真屋さんはマグネシウムフラッシュをぼっと焚いて撮った。
昭和20年3月。
兄は幸いにも徴用されることなく終戦を迎えた。
兄は大学生になって京都に下宿した。
そして我が家に西洋音楽や西洋絵画、映画、新劇など多くの文化を持ち込んだ。
家に有ったSPレコードは全部兄が買って来たもので(カルメン組曲とかアルルの女など)古本屋で買ってきたという美術全集。
文学全集も有った。
兄は大学に在学中に教会に通って洗礼を受けた。
帰郷するたびに、賛美歌や日曜学校の子供相手の楽しいゲームや歌を教えてくれた。
これらの全てに子供だった私は大きく影響を受けてしまったのである。
兄が大好きだったから。
その頃からえらく女性にもてた。
兄は女性の中で育っているから女の子のことを良く知っていて、女の子の好きなことも心得ている。
父に似て口がうまい(妹たちには別)。
やがて、お小遣いの使い方も荒くてなって、借金を作って両親を困らせていたことも多かった。
いつもお金が無かった。
兄が結婚してから兄の家に行くと「兄ちゃんの服買うてくれるようにお父さんに頼んでくれへんか」と私に言うのだ。
父は厳しかったので自分で言えなかったのだ。
兄嫁も所帯のやりくりは大変だったと思う。
だから、妹に何かを買ってやるとかお小遣いをやるということは言うことは無かった。
最近、思い出話の中でM子姉ちゃんが「むかし、兄ちゃんに心斎橋でピンクのパラソル買うてもろた」と言った。
え~信じられへん。とH子姉ちゃんも私も口を揃えて言った。
本当は買ってやりたいけど、妹に餌は要らないと思ったのかな?
何か買ってもらったことは一つもない。
兄の思い出はどうも「悪口の記」になりそうだ。
亡くなった人の悪口は言いたくない。
反論出来へんもの。
私の思い込みだけで「ちゃうちゃう、ほんまはこうやねんで」と兄は言いたいかも知れない。
兄ちゃん、ごめん。
つづく。