a-dollのブログ

忘れたくない日々のあれこれの記録

我が母の記 1

母が生まれたのは明治34年(1900年)8月。

分かりやすい生年月日なので数字に弱い私でもすぐ理解できる。

早い話、私は1936年生まれなので、母は36才になっていたと分かる。

母は子年生まれで、私も子年、因みに祖母(良くブログに登場するよしのさん)は1864年のやっぱり子年なのである。

私が生まれた時、産婆さんが家に3人もねずみ年が居るのは目出度いことやから、「この嬢(とう)ちゃんはお嫁にやらんと御養子さんを取りはったらよろしおまっせ」と言ったとか。

 

私が生まれたのは12月の14日。

商家では大晦日まではむちゃくちゃ忙しい。

産後だからとゆっくり寝ているわけにも行かなかったのだろう。

母は無理をして病気になった。腎盂炎ということだった。

抗生物質が無かった時代、危うく死にかけたのが助かって元気になった。

もし、この時母が死んでいたら乳飲み子を含め子供5人もいて父は困ったことだろう。

母は生命力が強かった。

この後戦争を挟んで、50年も生きたのだから。

この後2年半が経って妹が生まれるのだが、父は母が心配で初めて産院へ入院して妹を産んだのだった。

それまでは、陣痛が始まったら産婆さんを呼びに行く。産婆さんが駆けつける。お湯を沸かす。という良くドラマにも出てくる情景。

母がお産の時は他の子供達はどうしていたのだろう。

現代なら「産まれました」とメールが入って病院へ行く。

ガラス越しに赤ちゃんと対面する。が普通だろう。

お産で死んでしまうということもめったにないし。

 

そんなに広くもない家の中で母親がお産をする気配を家族全員が固唾を飲んで心配して待っていたのだろうか。

 

母の人生は幸運が続いたが、前半の子供の頃はかなり厳しい暮らしだった。

父のように書いたものを残さなかったから、確かな事実は分からないけれど、私が母の口から聞いた限りでは悲惨な貧しい暮らしだったらしい。

父親が早く亡くなり、未亡人になった母と姉の暮らしは大変だった。

生まれたのは大阪市天王寺区

 

つづく