寒い。
ようやく年末らしい冬になった。
どこにも行かずにお片づけを楽しむ。
「我が母の記」が尻切れとんぼになってしまっていた。
取り敢えず終わりにしようと思う。
「我が母の記」 終り
母には叱られるというより、こまごま注意されることが多かった。
私は人と喋るのが苦手で(何を言ったら良いか分からずパニックになって言葉が出ない)いつも黙りだった。
そこを母が指摘した。
「口が重い」
「男は度胸、女は愛嬌っていうやろ」
もっとお上手を言って愛想を振りまけっていうのだった。
口からでまかせを言って、周りの人を惹きつける夫と出会って「ほ~こんな嘘八百言うてもええのん?」と目からウロコだった。
この手で夫は私の母にも気に入られた。
「一人になったらあんたとこで暮らすわ・・・」
それは実現しなかったが、もし実現していたら口先で丸め込まれるだけで、実生活は大変なのだと納得してもらえたと思うのだが。
また、「あんたは冷たい。情が薄い」とも言われた。
例えば、C子姉が風邪をひいて熱を出した。
私は出張ヘルパーを命じられる。
浜寺まで遠い道を駆けつけて1晩泊まって、食事やあれこれ手伝って、翌日姉の熱は下がったので「*ちゃん、もう帰ってくれても良えよ」と姉が言ったので帰った。
母に「帰っても良えというのは遠慮やから帰ったらあきませんねん。あんたは冷とうて情が薄いのや」と叱られた。
本当に居て欲しかったら姉は遠慮せずに「悪いけどもっと居て〜」というはず。
多少の遠慮は有っても帰っても良い・・・と私は判断したのだけど。
私は親切の押し売りはしたくないのだ。
手伝いが要ったら率直に頼んでくれたら、喜んで私の持ってるか細い力を貸すことができると思うのだった。
母は時に人を煽ってやる気を起こさせた。
私は娘が一人。H子姉ちゃんには2人の女の子が居た(後に男の子も生まれたが)。
実家に行くと母はこう言った。
「この前H子さんが来たけど、二人の子に赤い可愛らしいコートをお揃いで着せていたで~あの子は甲斐性者やわ」
「ナヌ?」
うちの娘の服は見すぼらしいと言うのん?お母ちゃんは・・・。
そこで、負けず嫌いの私は次は頑張って娘に可愛い服を縫って実家に帰るのだった。
・・・母は満足気。
要は嫁に行った娘たちが幸せに暮らしている様を近所の人に見せたいのだ。
見栄っ張りでもあったお母ちゃん。
娘が多いと大変な面も有ったのだ。
母は85才まで家で元気に生きた。
緑内障は病院に通っていたが失明するまでに至らなかったし、足腰も丈夫だった。
亡くなる少し前から急に弱ったけれど、家にお手伝いさんに居てもらって、巣立った子供達に目を配り、時には手伝わせて穏やかに暮らした。
幼い頃から成人するまで貧しく厳しい生活だったけれど、晩年は幸せだった。
最後まで夫婦仲が良かったのが一番素晴らしい。
最後は父が入院していた病院に運ばれて、闘病中は車椅子に乗って父の病室を訪ねていたのだが、父より先に逝ってしまった。
終わり。