スダチの花が咲いた。
柑橘類の香りは格別である。
夏の終わりに収穫。
おそうめんのつゆに絞ったらさぞ美味しかろう^ ^。
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楽しみと喜び(12)ー束縛からの解放の喜び
金剛バプテストキリスト教会婦人聖書の集いより
聖書 詩篇53:6
神が御民の繁栄を元どおりにされるときヤコブは楽しめ、イスラエルは喜べ。(第三版訳)
神がとりことなった御民を返されるとき、ヤコブは楽しめ、イスラエルは楽しめ。(第二版訳)
1、国家的束縛からの解放
第三版訳では「繁栄を元どおりにする」とあるが、具体的には第二版訳のとおり、「とりこになった民を解放する」ことである。
歴史を辿ると、民がエジプトで奴隷であったとき、神はモーセを通して解放の喜びを与えられ、バビロン捕囚のときにはペルシャ王クロスによって解放の喜びを与えられた。
2、人種的差別という束縛からの解放
エペソ2:11-16
キリストの福音は、すべての人が神に等しく愛される者であり、何らの差もない事を示す。
十字架こそ愛と救いの喜びを等しく人間に提供するのである。
3、身体的束縛からの解放
弟子たちはイエスに尋ねた。
「先生、この人が盲目なのは、誰が罪を犯したからですか。
この人ですか。両親ですか。」
イエスは答えられた。
「この人が罪を犯したのでもなく、
両親でもありません。
この人に神の業が現れるためです。」 ヨハネ9:1-3
現代でも、身体的障害や病は罪の因果応報であるという根強い思想に束縛されている人々に、キリストは全く違う教えをされた。即ちそれは祟りでもなく心がけが悪いからでもなく、その障害において神の偉大な御業を表す喜びが与えられているのである。
4、自分という束縛からの解放
あなたがたに対する私たちの愛の心は、
狭くなってはいません。
むしろ、あなたがたの思いの中で狭くなっているのです。 2コリント6:12
私達は自分の「窮屈さ」が他人や何らかの問題の所為だと考え易いが、聖書は「自分の心で自分が窮屈にしている」と語っている。
自分の捉え方によって束縛にもなるし、糧にもなる。
御言葉の光によって自分が変えられるとき新しい見方ができる。
それは束縛からの解放の喜びをもたらす。
この世と調子を合わせてはいけません。
むしろ、心を新たにする事で、自分を変えていただきなさい。
そうすれば、神の御心は何か、すなわち、何が良い事で、神に喜ばれ、
完全であるのかを見分けるようになります。 ローマ12:2