余りにも落ち込む話が続いたので、
こんな時に鬱陶しい話は終わり!
今日は愉しい人のことを書こう。
愉しい人といえば11年前に亡くなった、うちの夫。
明日が誕生日で、1930年生まれなので生誕90年になる。
80才になる1ヶ月前に死んでしまった。
そして、あと2ヶ月で金婚式なのに、先に天国へ行ってしまった。
もうちょっとの事やのに、本当に辛抱の足らん人だった。
彼は浮き沈みの激しい生涯だったが、人生の始まりに大きな試練が待っていた。
3才の時に母を突然亡くしたのだった。
夫が言うには背が高くて美しい人だったらしい。
父は再婚を願ったが、祖母と独身の叔母(父の妹)が継母はかわいそうや・・と住んでいた名古屋の家から大阪に引っ越して同居を始めた。
(父こそ可哀想)
夫は2人の女性に可愛がられて甘ちゃんのまま大きくなった。
当時の夫。
天性の陽気な性格でお茶目だった。
人懐っこくて誰にも好かれ、友達にも、特に先生に好かれた。
祖母と叔母に溺愛されて、甘えたのお坊っちゃまに成長した。
食べ物の好き嫌いが激しかった。
嫌い!といえばすぐ下げて、好物だけを食べさせた。
結婚して困ったのは、嫌いな食材が多いことだった。
食べず嫌いが殆どだったけれど、折角料理本を片手に作っても「口に合えへん」と残すのである。
「むかっ」として、ゴミ箱に捨てたことも有ったけれど、そこは辛抱強く育てられた私。
ここをチャンスと、嫌いな食材のリストを作り、好きなものだけ食膳に出した。
毎日同じでも文句は言わない。
これは調理を担う妻として楽だった。
本当の美味しいものを知らないだけで、少しづつ誤魔化して嫌いな食材をメニューに加えたら、知らないで食べてしまうということもママあり、扱いやすい。
叔母も料理をしなかったし「おふくろの味」云々を言わず、これも助かった。
名古屋味噌ときしめんが好きなのには往生したけれど、だんだん私の味に変えてしまった悪い妻の私。
女性の理想像を母「忘れじの面影」に求めたけれど、亡くなった母親は楽天的な人だったらしく、毎日子守に子供を託し、芝居見物や映画や買い物に出歩いていた人だったという。
亭主(夫の父)が帰宅しても、まだ食事の用意は出来ていなくて、部屋に新聞を広げて読みふけり、耳掃除をしていた。
と夫から聞いた。
私に「僕のお母ちゃんはもっと出歩いとったで~お前も外へ遊びに行ったらええねん」と言った。
「誰が子守をしてくれるのん?」
・・・・。
ベビーシッターを雇う余裕なんか無いのに。
少し娘が大きくなった頃には、時々遊園地に連れて出かけ、私は映画を観たこともある。
彼の中には現実と妻への思いやりが繋がらなかっただけ。
娘が成長してからは二人で出かけた。
甲子園の野球見物。
楽しみ方を知っている人で、大きな声で野次を飛ばしていた。
「**何やっとんねん!ピッチャー交代、こうたい!」阪神ファンのよくあるパターン。負けたら選手をボロカスに言うのである。
夫がこれだった。
芝居見物、歌舞伎も新劇も、宝塚も。
フェスティバルホールでは当時託児室が設けられていたので、娘を預けて楽しんだ。
吉本や落語も。
映画は好みが全く違ったので、私に合わすといつも横で寝ていた。
余裕が出来てからはテレビを2台買って、別の部屋で別の番組を観たのだった。
夜は、殆どは野球中継を見ていたので、今のこの状態に夫は辛抱できるかしらん?
つづく