暑いのに又咲いた蕃茉莉。
私のお祖母ちゃん(改定版)
毎年夏になると、暑いし暇だから、私に繋がる昔の人のことを想いだして書いてみる事にしている。
私の祖母は江戸時代の人である。
元治元年(1864年)子年の生まれ。
江戸、明治、大正、昭和を生きた人である。
母は祖母が36歳の時に生まれて、私も母が36歳の時に生まれている。
だから今年は祖母の生誕155年かな?
83+72=155 合ってる。
3人ともねずみ年。
ちょっと不思議な血縁関係。
祖母の名前はよしのさんという。
私のブログではよしのさんで通っている。
私が物心がついた頃、よしのさんは既に80歳近かった。
背中が丸く二つ折れになっていて黒い丸い石ころのような印象だった。
納戸のような部屋の隅にいつも座っていた。石ころが転がっているように。
このよしのさんは子供の頃、天然痘が流行った。
幼いよしのさんは運悪く天然痘に罹患した。
まだワクチン(種痘)が日本全土に行き渡っていなかった。
幼い私に話した闘病生活は、大きな桶のような中に寝かされて隔離されていたらしい。
幸い命を取り留め、目も煩わず(後遺症として目が見えなくなる人が多かったと聞く)、快癒したが顔に痘痕(あばた)が残ったのだった。
私が知るよしのさんの顔はしわくちゃで、痘痕は分からなくなっていたが。
こんな悪口を書いている悪い孫だけど、今思えば顔に痘痕が残ることはさぞ子供心に傷ついていただろう。
辛い娘時代を過ごしたことと同情する。
可哀想なよしのさんなのだ。
それでも私に話した子供の頃の思い出では元気なおてんば娘が浮かぶ。
川で仰向けで泳いだこと(何を着て?水着は無かっただろうし)。
「紀州、紀ノ川、あら川、粉川、饅頭包むは竹の皮、と言うてな、家のそばに川が流れてたんや」
家は苗字帯刀を許された紀州藩の地主だったというが、わがままな上に痘痕ヅラでは良い嫁入り先も無いだろうし、親は心配して14歳で奉公に出した。
幼い私には「お祖母ちゃんはな、14のときに立派な家に嫁に行かされてな~」といったが、幾ら明治時代と言え14才は無いだろう、多分行儀見習いに出されたのだろうと孫の私は冷静に判断する。
よしのさんは字が書けず読めなかった。
多分、勉強をするのが嫌いで寺子屋へ通わず、お裁縫も、苦手だったと思われる。
幼い私に話しをする時は色摺りの錦絵を見せてくれた。
殆どは地獄極楽のおどろおどろした絵だったから「こんなん気色悪いから見るのん嫌や~」と逃げた。
奉公先は、格式あるお家で「紀州の殿様が休憩しはるお家」とは祖母の記憶。
奉公先で何年か行儀作法を仕込んでもらったら、良い縁談を探して下さるからお嫁に行ける筈。
しかし、余りの窮屈さに辛抱できずよしのさんは飛び出した。
わがままな娘には無理だった。
出たものの実家に帰ると叱られるから、そのまま大阪へ出奔したのだという。
和歌山の実家が何も手に職の無い娘をいくらワガママだからといって一人放っておくことは無かったと思うが、普通の人より苦難の青春時代を送ったと思う。
幸い結婚した相手は、背が高くて優しく、出自は金沢の立派な家の跡取り息子だった。
痘痕はあっても多分闊達な性格で私のお祖父さんにとって「あばたもえくぼ」だったと思いたい。
今は落ちぶれているけれど、勝気なよしのさんには満足出来る相手に巡り合ったのだ。
よしのさんは天然痘という防ぎようの無いウイルスにやられたけれど、命を取り留めた。
そして何と当時では珍しく92歳まで生きたのだった。
子供は母一人だったけれど、孫が6人生まれて、ひ孫は15人も生まれ、玄孫は?・・・と繋がっていったのだから、大切な大切な命だったのである。
そして私も今ここに生きている。
つづく