C子姉ちゃんの生涯。
朝の連続ドラマの主人公「安子」と1歳違い。
当時父は24歳、起業したばかりだった。
また、その前の年に結婚したばかりで、希望に燃えていた。
産まれた女の子はさぞ可愛くて大切に育てたのだろう。
C子姉ちゃんは長女だけどおっとりしている。
次々生まれる弟や妹たち。
使用人が居たから子守をすることも無く、安子のように店番をすることもない。
女学校へ通い「少女の友」の中原淳一の絵に憧れる夢見る夢子さんだった。
戦争中は女学校を卒業し家で母の助手をしていた。
家事手伝いである。
また国防婦人会青年部のリーダーをしていたみたい。
何をしてたのだろう。
終戦後、父の会社に復員して入って来た社員が優秀と見込んだ父は、C子姉ちゃんに養子を取ることを決めた。
4歳下に長男がいたけれど、京都で学生生活を満喫しすぎて放蕩息子になってしまっていたので。
姉の結婚は幸せそのものだった。
義兄は父の片腕となって事業の発展を支えた。
穏やかな性格で、私たちにも優しかった。
姉の結婚生活は私にとって理想の家庭だった。
二人目の子供が生まれると、家の裏に座敷を新築して姉一家が移り住んだ。
子育てが大変だろうと父が考えたのだったが、これは失敗に終わる。
兄との間がギクシャクして、兄はいっそう荒れた生活をする様になってしまった。
以後義兄と兄の関係は修復せず、義兄はストレスを抱え早くに脳出血で死去。
59歳の若さだった。
C子姉ちゃんはしばらくは落ち込んでいたが、遺産で気楽に生きていけると分かってから、それまでも趣味にしていた謡曲やお仕舞いに打ち込み、また短歌を読んで研鑽を積んで、優雅な未亡人の暮らしを始めた。
その他C子姉ちゃんがやっていたのは「ヨガ」「リズム体操」「コーラス」。
この頃、私はC子姉ちゃんの外出着の仕立てを頼まれて、服地を買う時から付き合って洋服を仕上げて仕立て代を貰っていた。
1年に数枚縫ったように思う。
出来上がるとネックレスなんか買うのも付き合って、そんな時は私にも気前よく素敵なのを買ってくれたのだった。
株主招待券で安く良い衣類を買えたのもC子姉ちゃんが誘ってくれたおかげ。
買い物だけで無く、私が誘うと「第九」の演奏にも参加してステージに一緒に立ったし、「民藝」の芝居も誘ったら必ず同行した。
晩年は、夫と姉と私の三人で行動を共にしたことが多く、一緒に食事をしたことも多かった。
考えてみたら、姉は生涯金銭的な苦労をしないで、優雅に暮らしていたように思う。
苦労知らずのお嬢さんを貫いた人生だった。
その点は本当に羨ましい。
だから極端に美意識が強く、自分の弱った姿を妹たちに見せるのは嫌で、頑固に面会を拒否した。
ただ、今残念に思うのは、晩年(偶然にも私の今の年齢)に圧迫骨折(仙骨)をした際に病院をたらい回しされ、圧迫骨折の診断が遅れたこと。
「痛みの原因が分かれへんの」と電話で訴えていたあの頃のことを思うと辛い。
治療が早く行われていたら、気力も保たれただろうし、認知症状も出なかったのではないかと思うのだ。
体が動き辛くても、家にいて短歌を作ったり、歌を口ずさんだりできたのになあ、と思う。
人生の最後の10年を、例え行き届いたお世話があったとしても、介護施設のベッドでの生活は勿体なかった。
私は幸いにも痛みの原因が早く分かり、ようやくまた元の生活に戻れそうな予感がして嬉しいが、C子姉ちゃんを反面教師として残りの人生を歩んでいきたいと思う。
昨夜、甥から葬儀と家に写真の前に花に囲まれて安置された骨壷の写真が送られて来た。
「10年ぶりにようやく家に帰れました」と書いてあった。
良かったねC子姉ちゃん。