a-dollのブログ

忘れたくない日々のあれこれの記録

子供の頃戦争があった 3

今日は77年目の終戦記念日

私は続きを書く。

 

終業式が済んで夏休みになった。

私の通知簿は多分悪かったのじゃないかな?

そんなん忘れた。

 

時々警報が鳴って、頭上をB29の編隊が不気味な唸り声を上げて(う~んど~~んと私の耳に聞こえた)北に向かって飛んで行く。

それと同時にサイレンが不気味に響き渡るのだ。

それは嫌な不安な光景だった。

爆弾を爆撃機に積んで大阪市内に落としに行くのだ。

 

何回目かの空襲で堺が燃えた。

私の家は堺の東側にあったので、防空壕の上から見ると西の方角の空が真っ赤に燃えていた。

火の中を逃げ惑う人々の姿が幼い私でも想像できた。

 

広島と長崎に怖い爆弾が落とされたことを知った。

詳しい情報は解らなかった。

私の得る知識は父からの物で、父も知らなかったのだろう。

 

8月15日、天皇陛下玉音放送をラジオで聞いた。

父が「日本は戦争に負けたよ」と教えてくれた。

よく晴れた暑い日だった。

負けた悔しさなんかはなくてホッとした感じ。

もう空襲や怖い教官に怯えることはないのだから( ^∀^)

その日から灯火管制のため電灯の傘に被せてあった黒い布を取り去って、明るい家に戻った。

ガラスに貼ってある白い紙も取り去った。

戦地や空襲で家族を失った人も多くいるのに、我が家は家族全員無事だったことを感謝した。

 

翌日は登校日だった。

H田先生はハンカチをぐしょぐしょに濡らして泣いていた。

「皆の努力が足りないから日本は負けたのよ。日露戦争の時のように毎朝八幡様に裸足で御百度参りをすれば良かったのに~」

とおいおい泣いていた。

クラスの生徒たちも先生を取り囲んで泣いていた。

8歳だった私は何かしらけた気分でそれを眺めていた。

 

9月 新学期。

新しい級長さんが任命されて私は自由の身。

学校は楽しい場所になった。

しばらくして硯に墨を擦って教科書を塗りつぶす作業が始まった。

何ページから何ページを全部、何ページは何行目から終わりまでって感じで、まあほとんどマックロケになってしまった~

今までの教育は間違っていた・・・らしい。

 

教科書で思い出したけれど、4年生に上がった時新しい教科書は貰えなかった。

多分、戦後のどさくさで子供たちの教科書まで準備できなかったのか。

近所の誰かに譲って貰いなさい・・・でも私は近所に知り合いはいなくて困った記憶がある。

結局どうなったのだろう?

 

H田先生は今から思えば若くて未熟だった。

でも大好きだったし、授業は楽しかった。

戦争中でも歴史の勉強は面白かった。

天照大神が天岩戸を閉じて引き篭もった時、美しい巫女が肌も露わに(おっぱいも見えてるのよと先生は言った!)歌いながら踊って、余り賑やかで楽しそうなので、岩戸を少し開けて覗いた途端、手力男尊がぐいっとこじ開けたんだ。

これだけのお話を実際に楽しそうに踊って見せて下さった。

先生はダンスが得意、

チャーミングで今でもその場面が思い出される。

初めてのショー見物だったかも。

 

4年生になった。

食糧難はますますひどく、皆飢えていた。

農家の児童だけ白いご飯をぎゅうぎゅうに詰めたお弁当箱を見せびらかして食べていた。

その頃、大阪市内から転校してきた生徒が増えた。

家が消失してやむなく親戚を頼ったりして住居を移したのだ。

戦災孤児の収容施設も校区内に出来て何人か入ってきた。

3組あったのが4組に増えて(男女2組づつ)私はB先生の組になった。

 

これから先の私の小学校生活は楽しい愉快なものになった。

問題は山積みでも平和は良い。

5年生の春。

クラス替えになったのでお別れ会。

B場先生は日曜日に(まだ連休は無かった)ハイキングに近くの山に連れて下さった。

メンバーは8人だけ。

一番前に座っているのは私の妹のSちゃん(2年生)。

「私も行きたい〜」と駄々を捏ねたので止むを得ず連れて来た。

 

全員モンペを脱いでスカートを履いている。

真ん中にいるK代ちゃんなんか白い素敵なドレスだ。

屈託のない笑顔。

 

因みに一緒に来たF本先生が写真を撮って下さった。

この時期、B先生と付き合ってたのだろうか?