朝日新聞の「語る」
数回に分けて片岡仁左衛門さんが語っている。
<戦後、関西歌舞伎が下火になって、1950年代以降、関西では「歌舞伎」とつくと観客が入らないとまで言われた>
私がせっせと歌舞伎を観に通った頃は、かろうじて関西歌舞伎は存在していた。
結婚して歌舞伎など見ることは許されない生活になってしまった。
娘が成長してからも、夫の叔母の介護が有ったし。
関西歌舞伎が公演される機会が無くなっていることを知って寂しく思っていた。
人気役者の多くが映画や他の演劇に出てしまったのが原因である。
関西で歌舞伎の公演が無くなって、片岡仁左衛門さんは(その頃は孝夫さん)は高校へも通えない程逼迫した暮らしをされたと書かれている。
1944年生まれだから、私より8歳若い。
<1949年、本名の片岡孝夫の名で初舞台を踏んだ>
道頓堀の中座で、子役で丁稚の役をしているのを観た記憶がある。
「お茶持っといなはれ~」
「へ~~~~~い」元気な声。
「返事が長すぎる!」
ええ声してるなあと記憶に残った。
思えばもう70年ほど前のこと。
高校の友達K子ちゃんに誘われて「学生歌舞伎同好会」に入った。
歌舞伎が安く観られるし、ある日は会長のB君が、孝夫さんのお父さんである13代片岡仁左衛門さんの楽屋に連れて行ってくれた。
その日、私は紺色の塩沢お召しに赤い名古屋帯を結んでいた。
どうしてこんなことを覚えているかというと、
「**さん、この着物なんていうの?」とK子ちゃんが珍しく人の着ている物に興味を示したからで、彼女は和服を着なかったし。
仁左衛門さんは優しくて、いろいろお話して下さった。
「次の芝居はは四谷怪談や、お岩さんが出てくるで~怖いで~、あんさんら大丈夫かなあ」とK子ちゃんと私におっしゃった。
同好会では仁左衛門さんと共にバスで嵐山に行ったこともある。
バスの中ではマイクを持ってお話をして下さった。
若い人に歌舞伎を知ってもらおうと努力をされていた。
天龍寺で記念写真を撮っている。
ここに写っている人たちは全員同年代。
女性は全員スカートを履いている。パンツなんか誰も履かない。
元気なら、全員米寿を迎えているだろう。
長い人生を歌舞伎見物を趣味として過ごして来たかな?
この頃の先代仁左衛門さんは55歳ぐらい(?)博識でユーモアがあって品があった。
時が流れ、私がようやく時間にも経済的にも少し余裕ができて歌舞伎を観始めた頃、先代仁左衛門さんは緑内障で目が見えず、それでも舞台にシャキッとした姿で立っておられた。
そして仁左衛門さんの三男である孝夫さんが、目が覚めるような華やかな役者となっていたのであった。
歌舞伎公演が無くなって、高校にも通えない程逼迫した生活を余儀なくされて、それでも芝居への情熱を失わず、苦労を重ねた分、より大きく花開かせたのだ。
他に類のない華やかで魅力的な役者である。
80歳になられた。
私は自分だけ年老いて行くような感覚を抱いているが、素敵な役者さんもやっぱり歳を重ねているのである。
今朝、掲載された写真の「女殺し油の地獄の与兵衛」。
夫と一緒に観た、忘れられない名演技、今も目に焼きついている。
まだまだ元気に活躍してほしいと願っている。