
昨日。
中学校の友達5人で食べたり歌ったりしながら、喋った中身はやはりすごい。
私たちは昭和20年の敗戦の時、小学校3年生だった。
Aやちゃんは、お父さんが終戦の1ヶ月半前に招集されて、戦地に行ったまま帰ることは無かった。
その時お父さんは32歳で、Aやちゃんを頭に3人の子供がいて、お母様は当時のことだから専業主婦で、食べて行くのは大変だったという。
その後、お母さんが再婚したけど、幸せな家族はもはや戻らなかった。
もうちょっと早く戦争が終わってたらお父ちゃんは死ねへんかったんや。
今でも無念で悔しそう。
六甲のMさんは、その頃、昨日待ち合わせをした堺東の駅のすぐ前に家が有って、小学校は近くの熊野小学校に通っていた。
堺ではまさか爆撃でやられることはないだろうと、集団疎開はしなかった。
でも堺は空襲による爆撃で燃えた。
怖かったよ〜
私はその日、防空壕の上から西の空が真っ赤に燃え上がっているのを震えながら見た。
Mさん家族はその後、親戚の納屋みたいな所にしばらく住んだという。
Fちゃんの戦時中は、大きな邸宅に住んでいるお嬢様だった。
家族写真には女中さんが2人、書生さんも写っている。
お父様の仕事が軍需景気で大いに儲かっていたのだ。
終戦後、落ちぶれて家を売って今住んでいる堺の借家に移って来た。
人生の初めの頃にえらい災難に出会った私たち。
今は気楽な老後生活を送っていることを感謝しつつ、楽しんで暮らしたい。