a-dollのブログ

忘れたくない日々のあれこれの記録

食料を求めて

70年前のこと
1946年夏。戦争が終わってほっとして安堵感はあったが、食料が無くなった。
わずかな配給があるだけだから、家族は皆飢えていた。
父は、度々、和歌山の得意先へお米を買いに出かけた。
闇米は取り締まられて見つかれば没収される。
父は建築金物を商っていたので、鞄に見本を詰めて、その下にお米を隠して持ち帰った。かなり鞄は重かったことだろう。
母は裏の農家に内緒でお米を分けてもらっていた。裏の主婦は「奥さん、今晩来とくなはれ、お父ちゃん留守やから・・」と夫に隠れて売ってくれた。
家の庭は耕して野菜畑になっていた。
それだけではまだまだ足りない。


夏休みになると、家族総出で淡路島へ出かけた。
淡路島出身の店員さんをこの年から雇っていたので、お米を分けてもらえる。魚は新しいのがすぐ手に入る。
宿泊先は得意先の金物屋さんの2階。お店の2階の座敷2間を貸していただいた。

C子姉が23才、兄が大学生、女学校の4年生と1年生の姉、私は4年生、妹は1年生。
汽車(蒸気機関車)で明石まで行き、明石港から江井まで連絡船に乗った。

お店から海辺まですぐだった。
朝、宿題を済ましてから泳ぎに行く。
午後、昼寝をして再び海へ泳ぎに行った。
C子姉も兄も浜寺水練学校で鍛えていたから泳ぎは達者だった。私たちもすぐ泳ぎを覚えた。海はだ〜れも泳ぐ人はなくて私たち兄妹だけだった。遠浅で澄んだ美しい砂浜だった。
夕方には漁船が砂浜に上がってきた。いろいろな種類の魚が獲れていて、フグが入っていた時もあった。漁師のおじさんがキュキュと擦ると、フグのお腹がぷーっと膨らむのだった。

食事はC子姉が自炊した。余り手伝った記憶がないので、お店の奥さんが手伝って下さったのかなあ。
お魚もお肉もなぜか手に入った。白いご飯がお腹いっぱい食べられた。
数週間滞在して食べて遊んで、たまに停電のない夜はトランプをして遊んだから、天国だった。ほとんど毎日停電だったけれど。
お姉ちゃんが司令塔だから、お姉ちゃんの言う通りしていたら心配事は何もなかった。

そろそろ夏休みが終わりに近く帰阪の日が迫ってきたのにまだ宿題の絵が出来てない、と慌てて砂浜で描いた思い出もある。
父が迎えに来て船に乗って帰った。その時も父の鞄にお米が入っているのを知っていたから、心配性の私はちょっと怖かった。

つづく