a-dollのブログ

忘れたくない日々のあれこれの記録

入院中の姉を見舞う

昨日予約しておいたので、午後2時に姉の病院へ見舞いに行った。

面会は家族しか許可してくれない。

姉は教会の牧師先生にお会いしたいのに、面会の許可が出なかった。

部屋に入ると怪我した時と違って、落ち着いた姉が居た。

「中西先生が葉書くれはった〜」と葉書を見せてくれた。

スマホや携帯を持たない姉には、郵便という昔からの通信方法しか無い。

 

痛みは無いようで、穏やかな様子でよかった。

開口一番言ったことは

「a-dollちゃん、オシャレな服着てるね」

「・・・・そお〜ありがとう」

他に先に言わなければならない言葉が有るでしょうが・・・。

 

救急車に乗った日を振り返ると、どうやら熱中症になって倒れたようだ。

ヘルパーさんが来ないので、一人で炎天下を近くのお店に買い物に行って帰ってから、仰向けに転倒し、その時に骨折をした、と私は推測した。

そういえばテーブルにパンが3個あった。

要介護3の姉は一人で外出は禁じられている。

姉はパンが好きで、ヘルパーさんに頼もうとしたが、来ないから買いに行ったのだろう。

今日も病院食がお粥だと不服を言っていた。

骨は日々良くなっていくだろう。

すぐにパンでもカステラでも食べられるようになる。

ちょっとほっとして、買い物をして帰宅。

 

今日のドールハウスは2階の寝室。

この部屋の壁紙は英国に旅行した時、バースで買った。

ドールハウスの材料がたくさん売っていたが、高級品ばかりで超高価で少ししか買えなかった。

パラソルも作った。

私の目はよく見えていたのだ。

今じゃ、人形たちの顔は描けない。

部屋は埃だらけ

4周目でコーラスの練習は休みで、ほっと息継ぎ。

午後映画を観た。

サスペンスでイタリアの映画だし観よう、始まってすぐに「あっこれは観たわ」と気がついたけれど全くどんな展開になったのか忘れてしまっている。

3月に観て半年も経ってないのに・・・認知症か?

途中でうたた寝をして、お終いまで見て、ああ犯人は彼やった。

お気楽な私。

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午後、娘が昨日から龍神温泉高野山に行って、一緒に行った友人と一緒に帰ってきた。

涼しかったのやて〜

羨ましいな。

 

今日のドールハウス

屋根裏のもう一つの部屋は、夫君の書斎。

部屋着を着て新聞を読んでいる。

鞄も作った。5センチ×3センチ。

スマホで撮った写真には白っぽい埃が写っている。

掃除やり直しなさい!

暑い日々、ドールハウスの丁寧掃除をしようかな。

猛暑の日は

駅前の集会場へは娘に送ってもらったが、帰りはTさんの娘さんの車で家まで送ってもらった。

 

いつもより遅くなって、昼ごはんを食べてから、午後の集会所での歌と体操に行こうとしたが、暑くて坂道を歩く勇気が湧かず、欠席してしまった。

運転手が家にいない時は送ってもらえないし・・・・。

 

午後は何もせず、面白そうな映画も見つからず、と言って昼寝もせず、ぼーっと過ごした。猛暑なんだからしょうがない。。

ブラシで埃を払ったドールハウス

これは屋根裏部屋。

部屋にいるのは、赤ちゃんと子守りさん。

どちらも窯で焼いたビスクドール

ベビーは身長4センチで、6個の部品で出来ている。

このドールハウスや人形を作ってから、もう20年ぐらい経ったかも。

すでにアンティークな雰囲気を漂わせてる〜

熱中症に注意

姉の手術は無事に終わって、明日からリハビリに入るそうでホッとする。

姪Hちゃんも早朝に出発して、執刀医の話も聞けた。

やれやれ。

 

午後久しぶりに謡曲の稽古の帰りのNさんが来た。

先週の水曜日に熱中症になった。

句会で大阪城に行って、3時間外で過ごしながら俳句を作って、その後屋内で句会をし、終わってから地下鉄に乗って、泉北高速に乗って帰宅した。

地下鉄を降りた辺りからふらついて、やっとの思いで家に辿り着いたそうだ。

食欲もなくボ〜ッとしていたが、夫のために夕飯の用意をし、自分はサラダのトマトだけを食べたが、しばらくして戻してしまい、フラフラで気分が最悪だった。

一晩寝たら翌朝は治っていたが、近所の医者に行くと「熱中症」の症状だと言われた。

彼女は丈夫な体を持っている。

弱音を吐いたことがなく、頑張りすぎる傾向がある。

「そんな時は救急車のお世話になった方が良いよ。高齢者なんだし。」

水は飲んでいたが塩分はとっていない。

「救急車を呼ぶのは悪いような気がして・・・」

 

聞けば、彼女の夫は冷房設備の無い2階で寝ているという。

信じられない。

これは危険やわ。

頑固でクーラーのある階下で寝ないらしい。

もしもの時は迷わず救急車に来てもらいなさいよ。

家にあったOS.1を1本あげる。

Nさん夫妻が熱中症になりませんように。

お客があるので掃除をしたドールハウスの温室。

ひまわりが咲いて、睡蓮が涼しげ。

 

姉の怪我と入院

アメリカからの客と歓談中に、姪Hちゃんから電話が掛かった。

4時過ぎ。

一人暮らしの姉は、毎日夕方にお弁当を配達してもらっていて、そのおじさんから電話があって、「部屋で倒れていたから抱き抱えて椅子に座らせて来ました」と報告してきたという。

Hちゃんは横浜に住んでいるのすぐ来られない。

何かの時は私達が駆けつけられるように、家の鍵を預かっている。

遠来の客を追い立てるように駅まで送ってから、娘と姉の家に駆けつけた。

急ぐから高速を走る。

30分ほどで到着。

 

玄関は鍵が掛かっておらず、戸を開けると姉はドアの前に三角座りでしゃがみ込んでいた。

「どうしたん?」

立てないみたい。

「今日は月曜やのに、ヘルパーさんが来はれへんから何でかな〜と思って」

「今日は日曜日やからヘルパーさんは来はれへんよ」

姉はちょっと混乱している。

エアコンはついていて熱中症ではなさそうだか、立てない。

駐車場に車を停めてから娘が来た。

電話して救急車に来てもらった。

「保険証、お薬手帳など」を探して持って、私が救急車に同乗する。姉と乗るのは2回目だ。

救急隊員はどの人も優しい。

「妹さんはどこから来はったんですか?」と問われたから、住所を言うと「えらい遠いとこから来はったんですね」と労ってくれた。

私の心が落ち着いた。

娘は車で救急車の後から来た。

これも8年前と同じだ。

病院も同じ病院。

 

救急の先生は内科医だが、優秀だった。

骨折ではないか?とレントゲンを取ったら右股関節骨折で即入院となった。

病院のシステムは姉が左大腿骨骨折で8年前に入院した時と全く違う。

部屋は個室しか空いてなかったが、入院に必要なものは全てレンタルで、家族の出入りはダメで、面会は予約制で、とても厳しい。

個人情報の扱いにも厳しい。

膨大な書類を書き、説明を受け、確認し、姉を病室に入っていくのを見送って終わり。

部屋がどんななのか中を見ることも出来なかった。

病棟の看護師さんに諸々の説明を受けて、質問され、横浜のHちゃんと電話で確認し

全部終わったのが8時半。

再び姉の家に行って、飲んでいる薬を探して病院へ持って行く。

姉の家のゴミを積んで、途中でコンビニで私達の夕飯を買って、家に帰ったのが10時だった。

私は緊急事態になると血圧が上昇して元気に成るのだが、今日は冷房がんがんの面会室で長時間の説明の時間が応えて、帰り路、腰のあたりが痛くなった。

「やばい」と娘が心配した。

帰宅後、湿布を貼って食事をしてすぐ寝た。

朝、すっかり痛みは取れたのでホッとした。

この上私が3度目の圧迫骨折でもなったら大変だ。

 

私は姉のように転けないけれど、何もしなくても圧迫骨折をする骨の弱さを抱えている。今後はより慎重に行動しよう。

別れ際、姉が「今日は帰られへんの?」と聞くから、「しばらく入院やよ」

「4、5日?」

「う〜ん、もうちょっと長いと思うよ」

可哀想で胸が一杯になる。

姉は93歳、9月9日には94歳になる。

前の骨折の時は手術をしてボルトを入れ長く入院して完治したが、今回は高齢だし、どうなるのだろう。

幸い、姉は不思議な人で痛みを感じない。

何とかこのまま寝たきりの生活にならないように祈るのみ。

 

午後、病院から連絡が来て、明日手術をするとのこと。

今日は新幹線の事故で、Hちゃんは大阪へ来られなくなって、娘が入院手付金(?)を支払いに行った。

娘の予定が入っていない日でよかった。

私は1日ゆっくり家事をして元気を取り戻した。

 

二見浦で泳いだこと

戦争が終わって3年目。

1948年の夏、臨海学校が有った。

私は小学校6年生になっていた。

「臨海学校に行くかどうかお家で聞いて来なさい」

と先生がおっしゃったので、臨海学校って何かな?と思いつつ母に聞いたら、

「参加させてもらいなさい」

と即答され、参加申し込みをした。

家庭で許可されたのは、クラスの4分の1ぐらいだったと思う。

写真で確認したら、私のクラスは女子は7人!男子は5人。

まだ戦後の混乱は続いていたし、費用を出せない家庭も多かったと思う。

宿泊先は三重県の二見浦。

夏休みに入って次の日に近鉄電車に乗って二見浦に行った。

宿からすぐ砂浜に出られる。

到着後、早速水着に着替えて海に入った!!

この日は生憎曇りで小雨も降って来た。

先生が多い。20人も居る。

初めての学校の行事なので、全部の先生が参加したのだ。

前列には校長先生も。

殆ど覚えている懐かしいお顔。

まだ食糧難は続いていたし、皆痩せているm(_ _)m

この頃の夏は、暑いと言っても30度を越す日は余りなかった。

この時の思い出も宿で暑くて寝苦しい事もなかったし、勿論エアコンなんかどこにも設置されてなかった。

涼風が必要な時は、団扇か扇風機。

 

良い香りがする美しい海水、懐かしい海の思い出。