明日を心配するな
聖書 マタイ6:25−34
1、心配の原因
日本語では「心配り」と書く。人への心配りは大切だが、それが過度になると「人の顔色を恐れる」となり、
物事に対する過度になると「思い煩う」ことになる。
心配の対象が「人」や「物事」であることから心の乱れが生じ「心配」となる。
聖書では、心配の対象が「人」や「物事」に捉えられている状態を「信仰が薄い」と教えている。マタイ6:30
心配りの対象を「人」や「物事」から目を離し、全てを御手におさめられている「神」に目と心を移し変えるようにすることが心配から解放される生き方となる。
2、心配の時に学ぶこと
①自然から学ぶ
信仰を持つと「空の鳥や野の花」の営みは偶然ではなく、神の作品であり、神が養い、装って下さる事がわかってくる。
空の鳥を見なさい。
種蒔きもせず、刈り入れもせず、倉に納める事もしません。
けれども、あなたがたの天の父がこれを養っていてくださるのです。
あなたがたは、鳥よりももっとすぐれたものではありませんか。 マタイ6:26
今日あっても、明日は炉に投げ込まれる野の草さえ、
神はこれほどに装ってくだる のだから、
ましてあなたがたに、よくしてくださらないわけがありましょうか。
信仰の薄い人たち。 マタイ6:30
「良く」とは「最善」の意味。
神が導かれる人生は「最善」の人生であって「最高」の人生ではない。
②「心配」しても寿命は延びない
私たちは病を心配し恐れるが、キリストは「心配しても寿命は延ばせない」と教えられた。6:27
現代の表現で言えば「人は病で死ぬのではなく寿命で死ぬ」ということである。
③生活の必要はすべて神が知っていてくださる。6:31-32
④神の国とその義とをまず第一に求めなさい。
そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます。6:33
⑤だから、あすのための心配は無用です。
あすのことはあすが心配します。
労苦はその日その日に十分あります。6:34
明日のことではなく今日一日の「苦労」に徹すること。