a-dollのブログ

忘れたくない日々のあれこれの記録

おなごっさんのこと

今日もお手伝いさんについて書くことにする。
私の小さい頃、大阪の商家ではお手伝いさんのことを『おなごっさん(おなごし・女子衆)』といった。
大抵は、地方の取引先の伝手で雇った。我が家の場合、和歌山出身のおなごっさんが多かったと思う。
名前に『どん』を付けて呼ぶ。例えば梅と云う名なら『おうめどん』という風に。
何人かのおなごっさんが居て、私の係りのおなごっさんが有って『おきよどん』という人だったが、私は舌が回らず『おこちゃん』と呼んでいた。
朝目覚めると、母は居なくておこちゃんが面倒を見てくれる。
母は使用人たちの食事なんかの陣頭指揮に店に出ていて忙しいのだ。
大平洋戦争が始まると父は郊外に家を建てて、家族はそこへ全員引っ越してお店とは別の暮しになったので、それ以後おなごっさんは1人だけになった。もはやおなっごさんとは呼ばず女中さんだった。
店の使用人は戦争に狩り出されて戦死したりした。お商売も出来ず休業状態だったと思う。
その後、姉達は次々結婚して家を出て、私が家事の手伝いをし始めた頃、三重県からMちゃんが雇われて来た。
中学校を卒業してすぐで、ほっぺたが赤くて金時さんみたいな女の子で可愛かった。
玄関でのお客への挨拶から、電話の受け答え、御用聞きなどの応対の仕方、お茶の作法など母は根気良く教えていた。預かった限り行儀作法を仕込む責任があるのだ。
この私が何とMちゃんにお料理を教えたのだ。
お料理学校で習って来たハンバーグの作り方なんかをそのまま教えた。洋裁も教えた記憶がある。
その後、休みの日には近所へ茶道やお花のお稽古に通っていたようだった。
Mちゃんはかなり長く居たから私が結婚してからも、身体の悪い時には手伝いに来てくれたりしたものだ。
信頼出来るから、任せておいても安心で赤ん坊の面倒も見て貰えたのだ。
Mちゃんはその後、近所の人のお世話でお嫁に行った。
懐かしいなあ、長い事会っていないけどどうしているのやろ。