a-dollのブログ

忘れたくない日々のあれこれの記録

おばあさんのこと

H子姉ちゃんのコメントに、おばあさんが出て来たので今日はおばあさんの思い出を書こう。
私が産まれたとき既に72才だったから、覚えている姿はもう背中の丸まった小さい歯の無いおばあさんだった。
母は2人姉妹だったので、姉に養子を取って一緒に暮らしていたのだが、姉が早く亡くなってしまったので、我が家に来て一緒に暮らし出したのだった。
おばあさんは,元治元年(1864年)産まれ。生家は紀州藩の名字帯刀を許された地主で、14才で旧家にお嫁入りしたのだが、窮屈で我慢出来ず、婚家を飛び出して来たという人だ。
とてもわがままな人で、良く娘である私の母と衝突して家出をした。おばあさんはどこに行ったのやろと案じていたら、いつの間にか又家に帰って来ていた。
孫には優しかったが、家出を繰り返したり、母に気ままを言うのは余り尊敬出来る姿ではなく、何となく馬鹿にしていた節が有る。喉に魚の骨が刺さったときに、魚の骨を頭に乗せておまじないを言ったり、単純な迷信を信じているので面白がっていた。
でも、勉強していたら肩を揉んでくれたり(普通と反対だ)霜焼けを掻いてもらったり、甘えられる存在でもあったのだ。
学校に提出する雑巾は、たくさんの針に糸を通しておいたたら、翌日ちゃんと縫い上げてくれる便利なおばあちゃんなのだった。
大阪に住んで長く経つのに、最後まで和歌山の訛りが残っていた。今になって悔やまれるのは、昔の話(家の前の行列で馬に乗った大将がズボンマンテル姿だったとか)をもっと興味を持って聞いておけば良かったと思うのだ。
おばあさんの話は古くさい。と真剣に聞かなかったのが悔やまれる。