a-dollのブログ

忘れたくない日々のあれこれの記録

泣き虫が移る

朝から歩いて整形外科と耳鼻科に行く。耳鼻科でめまいの薬を処方してもらう。これで何時発作が起こっても大丈夫だ。
午後から本格的に雨が降り出した。
夫は朝から俳句に出掛けて留守。
FM放送を聞きながらミシン仕事をする。今日はガーシュイン特集でボストンポップス演奏の『ラプソディーインブルー』や『パリのアメリカ人』をやっている。
H子姉はまだ泣き虫が治まらず、電話したら泣いていた。C子姉も入院したまま情報も入らず、携帯電話もならない。
幼い日から二人の姉を頼りに生きて来た私なのに、二人ともこんな状態で実に心細い。
今から40年前、娘が小学3年生の時、私は長期に入院していた。切迫流産を止める為に9月に入院をして、ベッドに寝たきりで3ヶ月を過ごし、揚げ句に次の年の始めに赤ん坊はお腹の中で死んでしまった。
私は悲しみのどん底に沈み込んでいた。
薬の所為で肝臓の数値が高く退院の許可が出ないし、足も萎えて歩けないので整形外科で歩行器を借りて歩く練習をして居た。そろそろと公衆電話まで歩いて行き、留守番をしている幼い娘に電話を掛けた。
娘は「お父さんにレコードを買ってもらったから聴かせてあげる」と電話の傍にプレイヤーを持って来て『パリのアメリカ人』を掛けてくれた。
この曲を春にヤマハ音楽教室のシニアクラスの発表会でアンサンブルするのだった。
当時は10円で公衆電話は市内だったら幾らでも掛けられた。
家に電話をすると、娘の話し声とともにカナリアの鳴き声が聞こえて、台所でお手伝いのおばさんが夕飯の用意をする音も聞こえる。
これは懐かしい私の家の音なのだった。
家に帰りたい気持ちが、押さえきれなくとても辛い。
公衆電話は病院のロビーに有った。夕方の病院のロビーはひとけも無く薄暗く、私は歩行器にすがって立ったまま受話器を耳にして、ずっと『パリのアメリカ人』を聴いた。
曲が終わると娘が「お母さん、聴こえたでしょ?私この曲大好きやわ」と明るい声で叫んでいる。
その後間もなく退院出来たのだったが、あの時の悲しさを今日思い出してしまった。H子姉の泣き虫が移ってしまったのだった。