a-dollのブログ

忘れたくない日々のあれこれの記録

開戦の日に思い出したこと。

1941年12月8日。

日本はハワイの真珠湾の海軍基地に攻撃して太平洋戦争に突入した。

 

私は5歳になろうとしていた。

父はこの年の春に、大阪郊外に家を建てて家族で転居する決断をした。

不穏な空気を感じて、大阪市内に居れば戦禍に巻き込まれると予測したのだろう。

店はそのままで生活は全部郊外に移した。

姉達は転校しなくてはならず、それなりに苦労が有ったようだし(いじめとか・・妬みによる差別、よそ者への偏見などなど)、母は都会の便利な生活から水道も瓦斯もない田舎の暮らしで不服だったと思う。

 

そのうち食料は郊外にいても配給で不足するようになったが、裏庭に野菜を植えて近所で闇のお米を買って何とか飢えずにやり過ごせた。

 

この戦争で友人の中には、家が消失した、父が戦死した、疎開に行っている間に両親が焼け死んだという人もいる。

級友の中に戦災孤児になって施設に収容されている子も居たが、お弁当は持たせてもらえず、お弁当の時間は校庭で遊んでいる姿を今でも辛い思い出として残っている。

 

父が決断してぎりぎりに転居したのは幸運だった。

こののち過酷な戦時下の嫌〜な日々が待ち受けているとも知らずに、田舎の生活を楽しんでいた幼い日の私。

家の周りは一面の田んぼ。

転居した時はレンゲソウが咲いて居たが、田植えの季節になると牛が耕運機を引っ張って田を耕す有様や、泥の中で田植えをしている姿を見られた。

暇だったから座り込んで眺めていた。

 

あの日から75年。戦の無い平和な日々がこのまま続いて欲しい。