a-dollのブログ

忘れたくない日々のあれこれの記録

終戦の頃

朝ドラはついに玉音放送で今年は終った。
戦死の報が届いて悲しみに打ちひしがれる家族。大抵の家は戦死者を出していた。

私のブログも幼稚園児は取りあえずおいといて、戦時中に跳ぶ。

幸い私の実家では、兄がもうすぐ出征という瀬戸際で助かった。
父の兄は、軍医として出征したが、早い時期に帰っていたし、弟は中尉で帰還し、金鵄(きんし)勲章を貰ったとかで、仏壇に報告をしている姿を覚えている。どんな勲功を立てたのかは知らない。
私は小学校3年生。妹は幼稚園。幼稚園は殆ど休みだった筈だ。


大阪の空襲がひどくなる頃、田舎でも警報が再々鳴った。
サイレンで警戒警報、空襲警報を知らせてくれる。鳴りかたでどちらか解る。
空襲警報が鳴ると、恐怖の気持がわーと沸いて来る。
3月の大阪空襲の時は、夜、起こされて、急いでもんぺを穿いて防空頭巾を被って外に有る防空壕に家族で入った。
熟睡していた兄とM子姉を起こすのは大変だった。
ドラマと同じく祖母は「わたいは仏壇の前で死ぬさかい、ほっといとくなはれ」と頑固に動かなかった。
例え、防空壕に入っても、爆撃されたら全員死んだだろうが。
爆撃機は何機も不気味なうなりを響かせて、私たちの頭上を北に向って飛んで行った。


昼、学校で警戒警報が鳴ると、子供は家に急いで帰る。
電車で通学している子供たちは、誰かの家に解除になるまで待機させてもらうことに決められた。
帰ろうにも、警報が鳴ると電車は不通になるのである。
私は薬局のTちゃんの家にお世話になった。Tちゃんの家は1階がお店で奥に台所と茶の間がある。2階は部屋が2間あった。
家族は、両親とお姉さんお兄さん弟の6人家族。茶の間はそんなに広くないのに、私までお邪魔して申し訳なかった。
警報が長引くと食事も一緒にとった。
食料の乏しい事は子供でも解っていたから、ものすごく気を使った。
母は、警報が解除になると私を迎えに来てくれた。
6月の梅雨の頃だった。電車はまだ止まっているので、家に向って歩いていると、再びサイレンが鳴って、それは空襲警報だった。
空襲警報が鳴ると、すぐ防空壕に入る必要がある。
知らない他所の家の防空壕に入った。誰も入って居ず、その筈だ、床はどろどろの粘土だった。
母も私も膝までどろどろになった。
ようやく解除のサイレンが鳴って、電車も動きだしたので、途中の停留所から電車に乗って帰った。
たんぼのあぜ道で、低空で飛んで来た爆撃機に撃たれて亡くなった子供も居たのだ。


その頃、余りのストレスの多さに私は登校拒否を起こした。
友達の家での気遣いだけではない。
学校での軍事教練が恐怖の頂点に達していた。
軍部から派遣された教員が段の上で、3年生以上の全校生徒を前に、手旗信号などの練習をさす。
私は級長(クラス委員)だったので、真ん中の一番前に立たされていた。
先生が大きな声で、一番前にいる私を指差して答えさすのだ。
私はふるえながら、か細い声で答えると「もっと大きな声で!」と叫ぶのだ。
私の恐怖心はピークに達していた。
ついに登校出来ない日が来た。
母に告げると「頑張りなさい」と云うだろう。私のストレスは誰にも理解して貰えない。
家を出たものの、駅で電車に乗れなくなってしまった。つづく。