a-dollのブログ

忘れたくない日々のあれこれの記録

子供の頃戦争があった 2

昭和20年(1945年)4月。私は小学校3年生になった。

3年生は3クラスあって、男組 女組 男女組に分かれていた。

女の子ばっかりのクラスで担任はH田先生と言う美しい女の先生だった。

 

2年生の時の担任だったF本先生がとても可愛がって下さって、2年生の3学期に良い成績をつけて下さったので、3年生の一学期は級長という名誉な役を命じられた。

母は何と名誉なことかと喜んだ。

でもその日から私の憂鬱な日々が始まったのだった。

 

長い人生には試練の日々が必ずある。

それも何度もやって来る。

幼くして一番最初に出会った試練の日々。

 

トップの座に着いたら、誰でも喜ぶだろう。

でも私は困惑の日々だった。

理由は人前に出るのが苦手。

分かっていても手を上げない子だった。

お帳面には何でもすらすら書けるし本も読める。でも大勢の前で命令したり注意したりするのは出来ない。

いつも両親や兄姉の後ろに隠れていたかった。

 

F本先生は大好きだったけど恨んだ。

私はひ弱で、逆上がりも跳び箱もできない。

走りっこもいつもベベた。

ボールは放るのも受けるのも怖い。

今なら発達障害の一つと言われたかも知れない。

私は級長さんになる資格は絶対無いのに・・・。

 

その頃から日本列島はアメリカの飛行機が空襲を受け始めた。

大阪では3月13日の深夜の空襲が最初で、その後6月1日から毎週のように空襲があった。

8回ほど空襲があって、最後は8月14日、終戦の前日に砲兵工廠のある京橋で大勢が死んだという。

 

情報が入ると警戒警報、空襲警報のサイレンが鳴り響いて、その度に学校は休みというか閉鎖されて、子供たちは蜘蛛の子を散らすようにそれぞれの家に走って帰らされた。

私は電車に乗って通っていたので、すぐ帰れない(しかも警報が出ると電車は不通になる)。

学校と父兄の間で決まりができて、電車通学の生徒は誰か親しい友達の家に退避するように、というのだった。

私は薬局のTちゃんの家に避難することが決まった。

 

授業中 突然の警報がなる。

私は仲良しのTちゃんの家に一緒に走って帰った。

Tちゃんの家は薬の匂いのするお店の奥に茶の間があって、階段を登ると部屋が2つある、という小さな家で4人の子供が居た。

お昼になっても警報が解除にならなかったらお弁当を食べて、お弁当のない日は一緒にお昼ご飯をご馳走になった。

私はこれが気兼ねで、どこの家も食糧のないことも知っているから申し訳なくて辛かった。

その頃はもう6月になって暑くなっていた。

家に帰れば涼しい服にとりあえずは着替えることが出来る。

学校へはモンペ着用が決まりだったから、暑いのを我慢しなくてならないし、その上Tちゃん主導の遊びをしなくてはならなかった。

警戒警報が解かれて、やがて母が迎えに来てくれて(母は遠路歩いて迎えに来てくれた)、電車が動くまで歩いて家に帰った。

これが嫌なことの1つめ。

 

次にある日、学校が軍隊のようになった。

H田先生は「3年中隊H田隊のH田隊長」と呼ばねばならず、職員室へ入るには「3年中隊H田隊***子H田隊長に報告が有って参りました」と入り口で叫ばねばならず、私が言うと他の怖い男の先生が「声が小さい、聞こえん!」と怒鳴るのだった。

級長なら何回も、掃除が終わったとか何とか先生に報告に行かねばならず・・・。

これが嫌なことの2つめ。

 

ある時、軍隊から本物の軍服を着て腰にサーベルを帯刀した兵隊がやって来た。

軍事教練の始まりで、軍国青少年を育成するための国の方針だったか。

運動場に3年生から6年生の生徒が並ばされた。

私は一番前に居て、そのこわ~い隊長の目の前に立っていた。

並んで行進の練習(北朝鮮や中国の行進に近い)全た〜い止まれ!回れ右!かしら〜右!きお~つけ!やすめ。

手旗信号の練習も有った。

赤と白の手旗を両手に持ってあ、い、う、え、おと書く。大きな声で命令される。

時に指さされ「お前やってみろ!」とチビの私に向かって威嚇するのだ。

それまで「兵隊さんのおかげです、お国のためにお国のために戦った、兵隊さんよありがとう」と歌っていたけど兵隊さんが大嫌いになった。

威張りの兵隊長が恐ろしくなった。

これが嫌なことの3つめ。

 

嫌やな〜嫌やな〜日々ストレスの連続で私は夜眠れなくなった。

段々夏に近づいて暑くなって来たのも暑がりの私には応えた。

ついに登校できなくなった。

駅まで行くが電車に乗ろうとしても足が前に出ない。

何台もやりすごしてからトボトボと家の方に歩いた。

駅の周りの田圃ではお百姓さんが暑い中腰を屈めて草取りをしていた。

家で母に「今日学校は休みやった~」と嘘をついた。

登校拒否児になったのだ。

 

そんな日が数日続いて、学校から連絡があったのだろう。

H田先生に叱られた。

「*ちゃん、頭は正しいことに使いましょうね、折角賢く生まれたのやから」と。

私は考えて学校をズル休みしたのじゃない。

足が電車に乗せてくれへんかったんや~・・・母も姉も理解してくれず困ったような悲しそうな顔をしているだけだった。

私は余計悲しくなって落ち込んだ。

 

そうこうしている間に夏休みになって学校へ行かずに済む日が来た。

級長さんはおしまい(˃̵ᴗ˂̵)

そして8月15日になった。

私の戦争も終わったのだった。

 

ストレスの原因になったF先生は担任では無くなったけれど、ずっと可愛がって認めて下さった。

続く。