今年も又あの日が近づいて来た。
日本が滅茶苦茶に壊れてしまって負け戦で終わった日。
天皇陛下のお言葉を聞いた日。
原爆の被害者で生き残っている人の平均年齢が84歳になったと言う。
戦争を少しでも経験して覚えている人は亡くなっていく。
辛うじてあの戦争を覚えている世代は私や妹ぐらいまでか。
いや、妹は終戦の時は幼稚園に通っていたから殆ど何も知らないだろう。
私の友人たちは子供の頃大阪市内に住んでいて、集団疎開や縁故疎開での場所で終戦の日を迎えている。
家を焼かれてしまった人が多い。
蔵だけが残っていて次の日蔵の扉を開けた途端、パッと火が出て丸焼けになってしもた、とYさんは言った。
家が焼けて逃げて一晩橋の下で寝た、とTさん。
それぞれ言葉にできない嫌な辛い経験をしている。
だからあの頃の辛い経験は余り話題にしない。
思い出すのが嫌、と言う人が多い。
私も友達に「あの時な〜あんなでこんなで辛かってん」と気楽に打ち明けたりしない。
日本が戦争を始めた昭和16年に大阪市内から郊外に家を建てて急遽転宅した。
郊外といってもその頃は農村地帯だった。
ほとんどが農家で、家の周りは田んぼ。
我が家の一角だけが勤め人やら商売人などが住んでいた。
家族8人揃って新しい場所での生活が始まった。
姉たちは近くの小学校に転校した。
兄は電車で大阪市内の中学校へ通った。
私は幼稚園に入る年齢だったけれど、その村には幼稚園が無くて、次の年から電車で3つ先の幼稚園へ入ることになった。
その頃はまだ食料も有ったと思うけれど、田舎のことでパン屋さんは無く、牛乳配達も無く、以後しばらく私の大好きな「牛乳とパン」はお預けだった。
明日に続く。