アボガドは大好き。
種も捨てられなくて・・・別に実がなるまで育てるつもりは無いけど。
何か可愛い。
私のお祖母ちゃん(よしのさん) つづき
昭和16年(1941年)の春に、父は郊外に200坪の土地を借りて家を建てた。
(何度もブログに書いた)
戦争の足音が近くなり、家族全員が大阪市内から疎開したのだった。
その年の12月8日、日本は真珠湾攻撃をして戦争に突入した。
よしのさんには娘が2人いた。
可哀想なのは早くに最愛の夫が亡くなったこと。
今でも母子家庭の暮らしは大変なのに、明治の頃は貧しい暮らしだったと思う。
長女が成長して婿養子をとった。
亡くなった夫の家を再興させようと期待したのでは無いか?
しかし、よしのさんの夢は破れて、夫婦の間に生まれた女の子も、長女も亡くなった。
儚く命が消える家族であった。
この時代、人はすぐ死んだのである。
残されたのは、お婿さんとよしのさん。
しばらくして、お婿さんはどこかで見つけた女性を後妻として家に連れて来た。
よしのさんは、あったまに来て我慢の限界が・・・。
娘と孫を失った悲しみも有るだろう。
次女(私の母)はその頃子供が6人も生まれていた。
私は幼稚園児で妹はまだ赤ちゃん。
私の父が「うちで暮らしはったらよろしがな。子供も仰山居るからお守りもいるし」と同居を勧めたんだ。
よしのさんは次女の家族の中の祖母という居場所を得たのだ。
夫の位牌の入った小さな仏壇。
押入れには真っ黒の小袖箪笥が1棹と布団。
それだけがよしのさんの財産だった。
戦争が起ころうと、食べ物が手に入り難くなろうと、心配しなくても娘の夫が面倒を見てくれる安心感。
最後の1年は認知症で大変だったが、92歳で家で娘(母)と孫2人(私と妹)に看取られて息を引き取った。
気儘ゆえ苦労が絶えない人生だったけれど、晩年は気楽で平安だったと思う。
若い頃から大阪暮らしで和歌山弁は殆ど無かったけれど、よさり(晩のこと)、よんべ(ゆうべ)とか言ってたな。
90歳のよしのさん。
隣に座る孫(私の兄)の胸あたりの座高しかない。