祖母「よしのさん」は食事に時間がかかる。
何故かというと、歯がないからだ。
1本残っていたのが、それもある日ついに抜けて全くの歯なしになった。
何で歯がなくなったのやろ?
そして何で入れ歯を作らなかったのやろ?
その頃、電車で停留所3つ先の町でよしのさんの甥が歯科医院を開業していた。
私が中学校の頃に治療に通ったので覚えているが、よく流行っていて優しい先生だった。
自分の甥が歯医者なのだから「叔母ちゃんの入れ歯作ってくれる?」と行ったら良かったのに。
よしのさんの甥や姪は和歌山から出てきて成功をした人が多い。
ある機械メーカーを手広くやっている人もいたし、姪という人も豊かなお家のご隠居さんだった。
思うのに、よしのさんはお金が無いのにプライドが高く、甥には頼みにくかったのかも。
あの頃は健康保険も無かったし。
「叔母ちゃん、何でこんなになるまで放っといたん!」と叱られるのも嫌だったのでは?
よしのさんは元治元年(1864年)生まれ。
生家は苗字帯刀を許された地主だった。
「お父さんは****院と言われてはった」と自慢していた。
幼い頃に天然痘が流行って、よしのさんも罹ったが命は取り留めた。
私が知っているよしのさんはもう皺の中に眼鼻があるっていう顔で、疱瘡の後の痘痕(あばた)があったかどうかは定かではない。
よしのさんは字が読めなかった。
親が「寺子屋へ行きなさい」といっても「いやや」と行かなかったのだろうか。
そんなよしのさんを孫たちは何となく見下していたように思う。
けれど孫を愛していたのには間違いなく、特に兄を大事にしてた。
それというのも2月の極寒の朝、難産で娘が苦しんでいる時に、よしのさんは井戸端で水垢離をして安産を願った。
だから生まれてきた長男が可愛かったと思う。
随分経ってからのことだが、兄が学生時代に夜遅くなっても帰ってこない時のこと。
よしのさんは心配で心配でたまらなくなって、途中まで迎えに行った。
真っ暗な夜道の曲がり角で屈んで待っている。待っていた甲斐があって可愛い孫の姿が見えた。彼が近づくと突然懐中電灯を照らしたので兄は仰天したそうな。
「お祖母さん、びっくりするやんか」とえらい怒っていたのを思い出す。
私の母はよしのさんを引き取って、夫に対して気を使っただろうけれど、父はいつもよしのさんに優しかったし大切に扱っていた。
会社の招待旅行があったら必ずよしのさんが行った。
温泉に泊まってご馳走が食べられたのだ。
だから、よしのさんは毎朝、門を出て行く父の後ろ姿を手を合わせて拝んでいたのである。
よしのさんはその頃では珍しく92歳まで生きた。
死ぬ1年ほど前に転んで頭を打ってから認知症になり家で看病した。私はまだ結婚前だったので大変だった介護生活を見知っている。この時、姪のつねのさんが「叔母ちゃん可哀想に」と同じ部屋で寝て最後まで介護をしてくれた。
よしのさんを昔から慕っていたのであった。
よしのさんは時々昔話をしてくれた。
その時は鬱陶しいはなしとばかりに真剣に聞かなかったが、今となっては残念である。写真も何も残っていないのだから。
もっと聞いて記録しておけば良かった。
つづく