南海電車が人身事故でダイヤが乱れた。朝9時に電車が中々来ず待たされたが、帰りの昼過ぎもまだ正常に戻っていなかった。
大切な命なのに、自ら絶ってはいけない。
今日は戦争記念日だが、生きたいと思う若い命を無惨に絶たれ、無念の思いを抱いて死んで行った人が一杯居たのだ。
人口の78%が戦後生まれだと云う。
私は小学校3年生だったから、全て解っていた訳では無いが、怖さ、辛さ、ひもじさは充分味わった。
大阪市内に住んでいた多くの友だちは、集団疎開を経験している。I橋さんは、思い出したくないから話したくもないのだそうだ。ひもじさの余りゴミ箱まで漁ったという。2年先輩のSさんは、疎開から帰ったら両親とも空襲で焼け死んでいた。彼女は大阪の老舗の1人娘だった。
Tさんは焼け出されて逃げて、天神橋の下で1夜を過ごした。
私は早くに父が郊外に家を建てて家族ぐるみ田舎暮らしをして居たので、比較的安全だったが、それでも空襲警報が鳴るたびにおびえて、今から思えばちゃちな防空壕へ逃げていたし、食料不足で栄養失調。家族全員がりがりにやせていた。
今の豊かな生活から考えられない辛い日々だったのである。