a-dollのブログ

忘れたくない日々のあれこれの記録

意義ある自分史

昨日の同窓会総会で1冊の本を頂いた。
「慰問袋の手紙」、副題に「嬢(とう)さんの見た大大阪と大阪大空襲」。
これは86才になる先輩が書かれた本である。
母校には、昭和20年6月1日に、戦火に巻き込まれ尊い命が奪われた惨い歴史がある。

この本は、勿論空襲の実体験を記録されているが、中盤は大阪の商家に生まれた女性と家族の歴史が面白く書かれている。今では理解出来ない(ドラマでも余り出て来ない)大阪の商家の記録として貴重だと思う。

著者は昭和3年に生まれた。お父様は松屋町筋で紙を商って居られた。
戦争の気配が濃くなって来たので、奈良に住まいを移し、清水谷高等女学校へ近鉄電車(当時は大軌といった)で通って居た。
この部分は私の家も同じ。昭和16年に家を建てて引っ越しをしている。


4年生で高等女学校を繰り上げ卒業し、大空襲当日は、済美館の3階(現在コーラスの練習をしている部屋)で開設された国民学校の教員養成機関で学んでいた。先生が兵隊に取られて足りないので急遽即席の先生を養成していたのだった。
大阪への大きな空襲は3回有るが、2度目の6月1日は、B29戦闘機509機が大阪湾から来襲し、港区から城東線(今のJR環状線森ノ宮駅、玉造駅まで焼夷弾による無差別絨毯爆撃をした。
焼け跡の写真を見ると、鉄筋の校舎の部分は焼け残っているが、辺り一面焼け野原である。

生徒たちはいくつか有る運動場の防空壕に入ったが、一つの防空壕に焼夷弾が入り、生徒4名職員1名が焼け死んだ。
彼女は救助を手伝った。その日は校内の食堂で何かの集会が有って大勢の一般市民も直撃を受けたそうだ。
担架で遺体を搬送したり、けが人を野戦病院のような状態になっている谷6の薄外科病院へ運んだりしている。
修羅場を懸命に働いている健気な少女の姿が浮んで来る。

お父様の松屋町の店も焼けてしまった。どんなに失意のうちに居られたことだろう。
焼け跡に掘建て小屋を一人で建てたと書かれている。
私の父の店は辛くも戦災を免れたので、戦後すぐにぼんさんたちが復員して来て商売を再開出来たのだが。

今、自分史を書かれる人は多い。
戦争の惨さは今では解らない人が殆どである。私も実際の空襲は出会っていないから知らないも同じ。もし日本が戦争に巻き込まれるとしたら、戦争に行く兵士だけでなく、国民も犠牲になるかも知れない。
しっかりと沢山書いて残して欲しいと思う。それを戦争を知らない人たちに読んでほしい。
著者は老後を恵まれた環境に居られるので、今年1月に自費出版をされ、第2版も最近出されている。

表紙の写真は雨の中運動場での軍事教練を受けている生徒たち。運動場の向こうには焼ける前の美しい町並みが見える。