今日も雨、ベゴニア雨に濡れて。
「田辺聖子さんの18才の日の記録」を読んだ。
田辺聖子さんの小説やエッセイには戦争当時のことは再々書かれている。
今回押入れから発見された「18才の日の記録」は戦時下の少女の生の声だ。
殆どの日本人が叩きのめされ打ちひしがれていた時、こんなにしっかりした文章で書き残して下さったのは貴重なことで、さすがと思う。
戦争中は学生といえど勉強はさせてもらえず、学徒動員で軍事工場(グンゼ)で戦争の道具を作らされていた。
田辺さんは読書がしたい、勉強がしたい、知識欲に飢えている。
この日記の山場は、やはり6月1日の大阪空襲の日の記述だろう。
学校で大阪市内への空襲の情報を聞いた。
樟蔭女専から鶴橋まで近鉄電車で来たが、大阪市中は電車は止まっている。
鶴橋から爆撃を受けた土煙の中を福島の家に歩いて帰ろうとする。
友達と3人で湊町へ出て梅田新道へ北進する。
田辺さんは足が悪いのでひきづって歩いている。
さぞ辛かっただろう。
友達が田辺さんの鞄を持ってくれた。
私でも鶴橋から福島へ歩くにはどうしたら良いかわからない。
「友人の大館さんは地理に詳しい」と書かれているが、この方は清水谷女学校を卒業されていたから、市内の地理に詳しかったのだろうか。
家に着くと、あゝやはり家は全部焼けていた。
田辺さんを迎えた両親の姿が印象的だ。
「聖ちゃん、家が・・・家が焼けてしもうた」
「あんたの本なあ、出すことが出来なんだ・・・」
お父さんは「焼けてしもうた。ははっは、しかしこれで皆、ぶじについてめでたいとせんならん」
この辺りは「風と共に去りぬ」のスカーレット・オハラと同じ心境だろう。
痛い足を我慢して歩いて家に帰れば、両親が待ってくれている。
広い家が残っている、と儚い夢を描きながら着いた家はすっかり焼け落ちてしまっていた。
大切にしていた本やノートや綺麗なお布団、皆焼けて無くなってしまった。
お父さんは病で倒れ半年後に死んでしまう。
気落ちなさったのだろう。
この箇所も読んでいて泣けてくる。
こんな時、女性の方がしっかりしてる。
お母さんは、泣きながらも立ち上がって家族が生きていくために奔走する。
終戦後の食糧難は凄まじい。
飢えとの戦い。
これは日本全国殆どの人々が同じだった。
空襲と焼け跡の描写や食料のない日の辛いやりくり、悲しい辛い日なのにしっかり記録してる。
いつかこのことを書かねば・・・と思ったのだろう。
でも田辺さんの好きなところは辛い日常でも時々ユーモアを挟んである。
たった一つ手に入れた鮭缶を猫に食べられたところとか、
堅苦しい演説をしに来た新聞記者の男性たちの描写。
将来の読ませる小説の片鱗がある。
軍国少女は洗脳されていた。
だから終戦の日の悲憤慷慨の記述は凄い。
遺族の姪御さんによると、万年筆で書かれているのに、この日のページは墨で書かれ「何事ぞ!」とひとこと。
家を焼かれても、この戦を聖戦と信じ苦難に耐えてきたのに、裏切られた思いが迸り出ている。
田辺さんは昭和3年生まれで、私より8才年長。
子供の私の記憶は曖昧だけれど、再々ブログに書いているD,D,Tの散布も3月だと分かったし、お母さんが選挙に行かれる日のことも出てくる。
お母様は晩年田辺さんの家にお部屋を建ててもらって生活をされた。
苦労が報われたなあ、と私は幸せな気持ちになれる。
ますます田辺聖子の信望者になって来た。