a-dollのブログ

忘れたくない日々のあれこれの記録

戦争前の大阪

「田辺写真館が見た“昭和”」

田辺聖子さんの生家は写真館を経営していて、お祖父さんもお父さんも写真技師だった。

だから田辺さんは幼い頃の写真が沢山あって良いな、と羨ましく思っていたのだけど、昭和20年6月1日の大阪大空襲で写真館は焼けてしまったのだ。

疎開してあった荷物の消失は免れたものの、アルバムは防空壕へ大切に包装をして埋めてあったが、いかんせん焼夷弾の直撃を浴びてぐちゃぐちゃ。

この本に載せている沢山の写真は親戚からもらったというのが多いらしい。

 

そういえば、私の姉のC子は田辺さんよりも3才上で、アルバムに女学校の友達との写真が沢山貼ってあったけれど、近所に住んでいた友人の家が丸焼けになってアルバムは持ち出すことが出来なかったと言うことで、姉は数枚引き剥がして上げていたことを思い出す。

 

戦争が始まるまでの大阪は豊かでお金持ちも貧しい人も余りくよくよせず気楽に暮らしていたようであった。

戦後流行った大阪のドラマが「しぶちん」とか「どけち」とか嫌なイメージを植え付けたけれど、本来の難波の商人の暮らしはもっと気楽で華やかだった。

 

最初の写真は「足立くんの召集令状(アカガミ)」。

昭和13年夏(だろう)田辺さんが自分の顔から小学校5年生ぐらいと推測されている。

写真館の若い従業員が出征するのでお祝いの宴会を大勢の家族でやっている。

お祖父さんは上半身裸で、田辺さんはシミーズ(女の子の下着)、後の男性も下着姿(縮みのシャツとステテコ)。

大阪の夏の夕方は暑くて、男性は大抵上半身裸で手ぬぐいを水で濡らして肩にかけて涼をとっていた。

今なら「写真をとるで~」と言ったら、せめてシャツぐらい着て、女の子はワンピースに着替えるだろうけれど。

時代はまだ気楽なのだった。

斯くあらねばならないという堅苦しいことは無しで、有りのままの姿を良しとしたのだ。

背後には明日出征兵士を送る壮行会のための幟「祝応召 足立多一郎君」が立てられている。

足立君は翌朝は店の前で少し高いところに立って町内の人等の餞(はなむけ)の言葉を聞くのである。

 

ー 塵箱(ちりばこ)に突っ立ち上がり決別す ー  須崎豆秋

家の前に適当な高い台がない場合。その頃、どこの家の前にも置いてあった蓋のついた木のゴミ箱に乗った人もあったのだろうか。

みかん箱を使った時もあったらしい。

田辺家では職業柄お手のもんで、机のような台に乗って挨拶をしたようだが。

写真は田辺さんの叔父にあたるサブロ兄ちゃんの時のもの。

 

f:id:a-doll:20190808180553j:plain

それは兎も角、お祝いの夕食は牛カツ、ナイフとフォークを使っていてビール瓶やお銚子も写っている。

昭和13年頃の招集は悲壮感もなく、気楽な宴会風景が写っている。

 

田辺さんは世の中で正当に評価されていない、又は誤解されている作家などに光を当てて調べ、本を書かれている。

例えば「作家 吉屋信子」「俳人 杉田久女」。

また、川柳は俳句より一段下のように見なされているが、批判精神をもって世の中をしっかり見据えている。

このご本には各章に川柳が載っている。

壮行会の夕飯の写真には、

ー 高梁(こうりゃん)は戦車に起きるよしもなし ー  岸本水府

戦車が満州の高梁畠を踏みにじっていく。

言挙げできぬその時代のひそやかな反戦川柳である。

 

ツンツンというニックネームの叔母さん(父の妹)の華やかな振袖の見合い写真。

この叔母さんはベッピンさんで、美貌を鼻にかけてツンツンしているので、ツンツンというニックネームがついた。

カラーでは無いが、刺繍の半襟に御所どき模様の派手な柄の振袖。豪華な袋帯を二枚扇に結んで、総鹿の子の帯揚げに帯留めは平打紐に貴石という華やかな姿である。

ちょうど谷崎潤一郎の「細雪」と同時代人である。

祖父母が嫁入り道具にと力を入れて拵えた豪華な着物だろう。

それにしても家族でニックネームをつけたりするのも面白い。

 

私も子供の頃、M子姉がちょっと可愛いからと済ましてツンと上を向いていたのを思い出す。

私は電車に乗って大阪市内の学校に行くためにプラットフォームに立っていると、向かいの下りのプラットフォームにM子姉ちゃんが入ってくる。中学校の音楽の先生をしていたのだ。下りプラットフォームは人が少なくて目立つ。

顔をツンと上に向けて気取って座っていた姿が目を思い出す。

学校でつけられたニックネームは「天向き」だった。

 

田辺さんの服は心斎橋の老舗で買ってもらう。お母さんはすぐ小さくなるからと大きいサイズを買って縫い上げをして着せた。これはケチではなくて、合理的で良いものを大切に着る精神の表れ。

 

食べるものをケチることも無い。

船場の丁稚の食事が粗末なのは有名だけど、田辺さんの写真館では家族も使用人にも牛肉のすき焼きを再々食べたらしい。

使用人は美味しいものを食べんと働かんという考えなのだ。

 

昭和20年6月1日で大阪は全て灰になってしまった。

人々の生活は一変し、気楽で豊かなあの頃は戻ってこない。

このご本は貴重な大阪の良き時代を描いている。

 

T.Nさん良い御本を見せて下さってありがとうございました。