聖書 マタイ6:1-4
今はボランティア活動の熱心な時代である。
教会でも奉仕や愛の働きがなされる。
そんな時に学んでおきたいのが今日の箇所である。
1、報いを求めるのは悪いことではない
プロテスタントのクリスチャンは、行いによって報いを得る考えを否定して来た伝統がある。
それは中世のカトリック教会が、良い行いをした報いとして天国に行けるという非聖書的な主張をしてきたことへの反省として無理からぬことだった。
しかし逆に、何も報いを期待してはならない、という考えも非聖書的なのだ。
なぜなら
そうでないと、天におられるあなたがたの父から、報いが受けられません。とある。
6-1
2、誰に報いを求めるのが大切なのか
大切なのは報いを誰に求めるかということ。
人に見せるために善行をしないように気をつけなさい 6-1
人から「あの人は立派な人だ」と褒められたり「感謝の言葉をかけられたり」することを期待しての善行なら間違っている。
そのような善行は、
神からの報いを失っている。
期待外れになった時不満が出てきて、神への善行という意味が失われ、何のための善行か分からなくなってしまう。
神に報いを求めること。
善行に対しては神が報いてくださる。
・・・隠れた所で見ておられるあなたの父が、あなたに報いてくださいます。6-4
報いを人に求めず神に求めなさいとキリストは教えられた。
あなたは、施しをするとき、
右の手のしていることを左の手に知られないようにしなさい。6-3
この意味は「右の手」=善行をする手。「左の手」=報いを求める手。
3、神からの評価
その主人は彼に言った。
「よくやった。良い忠実なしもべだ。
あなたはわずかな物に忠実だったから、私はあなたにたくさんの物を任せよう。
主人の喜びをともに喜んでくれ。」マタイ25-21
このように神からお褒めの言葉を戴いた人が出てくる。
神から与えられたタラント(賜物)を一生懸命使い、神から「よくやった」とと言われるように生きることは、クリスチャンの生き方を正しく方向づけ、生きる力をもたらす。