これで生い立ちの記は終わりだが、父の兄弟で生い立ちの記の中で余り触れてない人達のことも書いておこう。
父の兄弟は仲良しだった。
貧乏で仕事のない時も助け合っていたし、何枚か残っている写真(多分親の葬儀で集まった時のもの)も、全員金沢から大阪まで来たのは律儀というか情が濃い。
3番目の兄 岡乗三は養家の東京世田谷区で歯科医院を開業していた。
私は結婚前に妹S子も一緒に父に連れてもらったことがある。
父は兄に会って嬉しいのかべらべら一人で喋っていた。
伯父さんはにこにこと弟のおしゃべりに付き合っておられた。たった一人の兄貴に甘える父の姿だった。上京の時には再々訪問していた様であった。
奥様は美しい人で伯父さんの自慢だった。
彼女は海外の指揮者のコンサートがあると、一人でチケットを購入して聴きに出かけたし、羽仁もと子の「婦人之友」の愛読者で、家の中は美しく整えられて合理的な暮らしを実践していた。
この時は鰻重の出前だったが、お酒の肴にトマトの輪切りの上に小海老の入ったサラダを盛ってあったのが印象的。
数年後、昭和34年(1959年)に夫と新婚旅行の途中で挨拶に寄った。
伯父さんは結婚式には出られなかったから。
伯父さんの家の敷地は広くて、縁側に立って広い庭を眺めながら「もうちょっと早かったらチューリップが一杯に咲いていたのだよ」とおっしゃったので、私は庭一面のチューリップを想像して私もいつかお庭にチューリップを咲かせたいな・・・と思ったものである。
なおこの時は苺がクリスタルグラスの器に盛られてミルクがたっぷりかかっているのを頂いた。
伯父さんにはその後度々手紙を書いた。
子供を連れて旅行した写真を同封したりして亡くなられるまで文通をしていた。
伯父さん夫婦には子供がなかったので、二人が亡くなられた後は、父が辻家(下記)の次男を養子にし後を継がせることになった。
父の兄弟の中でこの伯父さんだけが長生きだった。
若い頃に自分は歯科医に向いている、と薬局に勤めながら夜学に通って勉強を始めたというから、自分の目的意識をしっかり持っている確かな人だった。
歯科医としては真面目で患者をおいて旅行も出来無い性分だった。
今のように麻酔をしてその日のうちに神経を抜いて治療終わり。ということもなかっただろうし。
患者にとっては信頼の置ける良い先生だったと思う。
父と岡の伯父さん。歯科医として従軍。
4番目の兄、辻四郎。
この人は金沢で養子に入る。
この時代は長男が家督を継いだら弟達は養子に出ることが多かった。
金沢で学校を出て、郵政局に務める。
転勤で堺にいる数年間に従兄弟との交流があった様に思う。
子供は長女と男子2人。
この3人が唯一私達兄妹のいとこだった。
父は8人も兄弟がいるのに辻家以外子供の無い家ばかりだった。
この伯父さんはやはり早くに亡くなった。いつ亡くなられたのか私は記憶に無い。
東京に住んでおられたし。
ただ、従兄弟はまだ学生だったので私の父は毎月仕送りをしていた。
長男Yさんは私より4才年上で今も年賀状のやりとりが続いているが、毛筆による達筆の年賀状である。アナログ人間と思える。宛名も毛筆なのだから・・・。
字が震えたりして無いから、矍鑠とした老人になっていることだろう。
長命で良かった。
つづく