集会所へ「優しい体操」と「うたのかい」に出席。
近所には何故か同年齢の人が多く住んでいる。
今日も「うたのかい」でNさんとKさんと並んで歌った。
楽譜を真剣に見つめて目がしばしばするのも一緒。
フォークソングになったら「こんな歌知らんわ〜」と言うのも一緒。
足がこむら返りを起こすのも一緒だ。
安心するなあ。
「Nさんとこ雨戸が閉まったままやねん」と同年輩の友人を案じる。
入院したのかな?
「2階の娘さんの部屋は、夜電気が付いているねんけど・・・。
聞きに行くのも何やから、メールしようか?」
Nさんは夫婦で近々息子さんの家のそばへ移るそうだ。
今住んでいる家は人に貸すらしい。
こんな話が増える。
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聖書の植物(13)ー「いのちの木」
いのちの木 グスタフ・クリムト
金剛バプテストキリスト教会 婦人聖書の集いより
エデンの園の中央に置かれた「いのちの木」。
これは一体どういうもので、どのような意味があるのか?
聖書 創世記2:9
神である主は.その土地から、
見るからに好ましく食べるのに良いすべての木を生えさせた。
その中央には、いのちの木、それから善悪の知識の木を生えさせた。
1、「いのちの木」とは何か
創世記2:9だけでは理解できないが、3:22を読めばわかる。
神である主は仰せられた。
「見よ。人はわれわれのひとりのようになり、
善悪を知るようになった。
今、彼が、手を伸ばし、いのちの木からも取って食べ、永遠に生きないように。」
つまり「いのちの木」は永遠の命をもたらす木であった。
即ち、神のみこころは創造当初から人間が神との交わりの中で、神の御心に従い、それによって永遠の命に生きることであった。
2、なぜ禁止ではなかった「いのちの木」から取って食べられなくなったのか
もちろんそれは人間が罪を犯しエデンの園から追放されたために「いのちの木」の実を食べることが出来なくなったからだが、更に深い神の配慮があるように思われる。
もし、人間が罪を犯したままでも「いのちの木」の実を食べ続けるなら、永遠に生きることが出来よう。
しかし、それでは罪の性質に悩まされてきた命を永遠に生き続けることになり、それは幸福でも喜びでもなく、苦痛以外の何物でもないだろう。
そう考えれば、罪の性質を持つ人間がある程度の長さの人生で終止符を打たれることは良いことなのである。
私たちはこの幕屋にあってうめき、
この天から与えられる住まいを着たいと望んでいます。2
それを着たなら、
私たちは裸の状態になることはないからです。3
確かにこの幕屋の中にいる間は、私たちは重荷を負って、うめいています。
それは、この幕屋を脱ぎたいと思うからでなく、
かえって天からの住まいを着たいからです。
そのことによって、死ぬべきものがいのちにのまれてしまうためにです。 4
第2コリント5:2-4
3、永遠の命の回復
しかし神は、人間の罪ゆえに中断されていた永遠のいのち計画を新しい形で実現回復された。
それは、神の御子を信じて始まる永遠のいのちの回復の世界である。
神のことばと計画は必ず実現する。
神は、実に、そのひとり子をお与になったほどに、世を愛された。
それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、
永遠のいのちを持つためである。 ヨハネ3:16
この天地は滅び去ります。
しかし、わたしのことばは決して滅びることがありません。 マタイ24:35