山上の垂訓も終わりに近づいた。
「実のない信仰は本当の信仰ではない。実によってその人が救われたかどうかが分かる」とよく耳にする。
その根拠として今日の箇所を引用されると、自分の信仰が少ないと感じている人は益々自信喪失になる。
マタイ7:18−20は果たしてそう教えているのだろうか。
良い木が悪い実をならせることはできないし、
また、悪い木が良い実をならせることもできません。マタイ7:18
良い実を結ばない木は、みな切り倒されて、火に投げ込まれます。19
こういうわけで、あなたがたは実によって彼らを見分けることができるのです。20
1、良い木と悪い木の譬え話の意味
19節を読むと良い実を結ばない木は、みな切り倒されて、火に投げ込まれます(永遠の滅び)と理解しがちである。
そう理解してしまうと間違った解釈になる。
ここは「文脈を理解する」という聖書解釈の原則を学ぶ典型的な箇所である。
この箇所は信仰者かどうかの判断基準を教えているのではなく、信仰者も時には悪い実も結んでしまうこともある。
良い実を結ぶのは、後の学びにあるように、ある条件の中での生活である。
それではこの箇所の意味は何か?
この文脈は15節以降の「偽預言者」を見分ける方法についての教えである。
にせ預言者たちに気をつけなさい。
彼らは羊のなりをしてやって来るが、うちは貪欲な狼です。15
15節は結論20節にかかっている。
つまり偽預言者は結ぶ実で分かる。
貪欲と「羊」を食い物にすることに偽預言者の見分けがつくと教えられたのである。
2、偽預言者に惑わされてはいけない
彼らは偽物だから力がないと思ってはいけない。
むしろ反対である。
偽物は「預言」「癒し」「奇跡」を行う力を持っている。22節
なぜなら彼らの力の根源は真の神ではなく、悪魔であるから。
モーセの頃から、偽預言者は力があり又良く当たるのである。申命記13:1-3
3、良い実を結ぶ生き方
クリスチャンも信仰によって救いを得たとはいえ、時に悪い実を結んでしまう。
それゆえキリストは良い実を結ぶ生き方を教えられた。
あなたがたは、わたしがあなたがたに話したことばによって、もうきよいのです。
ヨハネ15:3
わたしにとどまりなさい。
わたしも、あなたがたの中にとどまります。
枝がぶどうの木についていなければ、枝だけでは実を結ぶことができません。
同様にあなたがたも、わたしにとどまっていなければ、実を結ぶことはできません。
4
わたしはぶどうの木で、あなたがたは枝です。
人がわたしにとどまり、わたしもその人の中にとどまっているなら、
そういう人は多くの実を結びます。
わたしを離れては、あなたがたは何もすることができないからです。5
①キリストへの信仰を持った者は既に「きよい」ことを感謝しよう。3
・良い実を結ぼうと焦らず、キリストにつながる事の御心に留めよう。
つながる=神との交わりがある事
(聖書に聞き従う、祈りの生活、礼拝の生活)