網戸越しにお外を眺めて「昨日は楽しかったにゃ」と未練たっぷりクルミちゃん。
私のお父さん つづき (子供の頃の思い出に戻る)
小学校や中学校の頃、父が学校に来た記憶はない。
娘の教育に関心がないわけではないが、とにかく仕事が忙しかったので、娘たちの教育は母任せであった。
ところが高校になって事情は変わった。
父は高校受験の時には3才年上のH子姉も通っていた「S高校を受験しなさい」と決めつけた。
家からは遠い。
近鉄電車に乗って、環状線(当時は城東線といった)に乗り換えて、降りてから10分ほどの坂道があるし。
何故S高校かというと、戦前から船場の商人の娘が行く元女学校で、父が最後に勤めていたお店の優しくて美しい御寮人(ごりょんさん)が卒業生だと言う理由だった。
父の会社から近くて、しかも父はPTAの役員になっていた。
当時のPTAの役員は殆ど船場の商人たちだった。
事業の仲間がついでにPTAをやっているって感じだったのだろう。
戦後昭和22年に学校制度が変わって、6・3・3制となった。
5年生まであった中学校と女学校を合併して生徒を2つに分けた。
小学校6年、新制中学校3年、高等学校3年、となった。
S高校は隣接するK高校の半分の男子生徒がやってきて、女学校からも半分がK高校に行って新しい高等学校が出来たのだった。公立の学校は全部共学になった。
そんな事情が有ったので運動場が狭い。
男子が野球やラグビーをするグラウンドが新しく要る、というのでPTAが力を出し合って隣接した焼け跡を買収してグラウンドとしたりこのPTAは力を持っていた。
父は事業拡張に忙しかったはずなのに、そんなことに時間を割いていたのである。
そんなことも私はちょっと嫌なことの一つだった。
だから高校3年間は余り楽しくなかった。
幼い頃の父の優しさは、私が成長するに従って厳しさに変って行ったのだった。
秋の夜は早く暗くなる。
日曜日に友達と遊びに行って暗くなってまだ帰宅していなかったら「どこへ行ってますのや」と母に苦情を言う。
母にも「お父さん怒りはるから暗うなる前に帰っといでや」といつも言われていた。
直接娘に言わずに母に言わす、父のやりかた。
服装にもうるさい。
赤いネイルを見つけられるとやばい。
「そんな赤い爪は良うないな」とやんわり咎められる。
・・・窮屈。
こんな時「ああ早うお嫁に行きたい」
「お父さんから自由になりたい」と思ったのだった。
しかしこの考えは甘かった。
結婚した相手はやっぱり同じ。
「赤い爪は下品や」とか、「そんな赤いコート着るのんやめとき」。
目立ったり個性的な服装を嫌がるのは男性はいずれも同じだったのだ。
父が夫に変わっただけだった。
話は逸れるけれど、夫は父よりずっと操縦しやすかった。
なし崩しに自分の思うような服装や生活様式に変えて行って現在に至る。
父はその点外は柔らかいけれど、中は硬く、容易に私は動かせなかった。
私は幸いなことに50年の夫との結婚生活を破綻することなく続けて来たけれど、大船に乗って安心という生活からほど遠かった。
父に対するような全て頼れる安心感は味わうことはなかった。
父はそこら辺を予感したのだろう。
結婚式の朝、出て行く私に言った。
「どうしても辛抱でけへんかったら、いつでも帰って来てもええねんで、お父さんがついてるからな」
この言葉があったから、私は難しい姑にも、お金に無頓着な夫にも、我慢して実家に帰ることなく過ごして来られたのだと思うのだ。
いつでもお父さんが待ってくれてはる・・・この安心感。
つづく