良いお天気だけれど、ちょっと冷える。
これぐらいの気温が最適である。
すずらんは庭のあちこちに生えている。
植えた覚えは無いのだけれど。
私が80年前まで住んでいた場所は大阪市南区だったけれど、古い地図で調べると昔は瓦を作っていた場所だったらしい。
家の南側に空掘り商店街が有って、そこは大阪城の外堀だったのを徳川家康が埋め立てた所。
だから、家は大阪城内に有ったと言える。
城を建てたり町家の屋根瓦の需要が多く、瓦製造は大事だったのだろう。
この地図(1843年)で見ると瓦土取場と書いてある。
高校の友人Tさんはこの地図の松屋南裏町「同」って書いてある辺りに住んでいて稼業は瓦問屋さんだったのを思い出した。
おっとりした一人娘さんで御養子さんを貰ったが、もしかしたら由緒ある家の末裔だったかも知れない。
話は違うけれど、作家の直木三十五はこの近所に住んでいた。
石碑が有る。
またウィキペディアによると、直木三十五は体が弱くて、幼い頃から谷町の医者「すすき病院」に通っていた。
この薄恕一先生は所謂「タニマチ」(お相撲さんの後援者)の語源となった人で、またこの薄先生はその頃出来たばかりの大阪府立第一高等女学校(現在の清水谷高校)の学校医をなさっていたという。
私はよちよち歩きの幼い頃、足の薬指が霜焼けから膿んで谷町のお医者さんに通った。
すずき病院だったと記憶にあったが、すすき病院だったのかも知れない。
大昔に繋がっている面白い事実。
幼い頃住んでいた家は長堀通りからすぐ南、松屋町筋からすぐ東で心斎橋筋へは歩いて行ける距離にあった。
1945年6月の空襲では西から爆撃機が東に飛んで爆弾を落とし、軒並み焼けた。
長堀通りから北は比較的裕福な立派なお家が有ったと覚えているが(C子姉ちゃんの友達が住んでいた)全部焼け野原になった。
終戦後、C子姉ちゃんと焼け跡を見にいったが、何もなくて、曲がった水道管から水がポタポタ落ちて流れているのが悲しく印象に残っている。
私たちが住んでいた周辺はそんな爆撃から奇跡的に逃れて焼け残った。
父の店はそのまま残って戦後すぐに商売を続けられたのだった。
その後父の店は移転し、昔の家も店も残っていない。
a-doll生誕地って石碑も無い・・・(^ ^)
コロナが終わったら、一度あの辺りを見に行きたいと思っている。