a-dollのブログ

忘れたくない日々のあれこれの記録

「わが母の記4」つづき

今日もお天気で気持ちの良い日曜日だった。出るとき準備がもたもたして眼鏡が見つからずサングラスをして出かける。

聖歌隊の練習にギリギリ間に合った。

 

わが母の記4」つづき

幼稚園に通ったこと

 

昭和17年の春、幼稚園に入園した。

母は毎朝駅のプラットフォームまで送ってくれた。

電車が来ると、決まった車両に藤野先生が乗っておられて、子供(私の乗る駅からは私とI君の二人だけ)を乗せて下さる。

次の駅でも同じようにプラットフォームで待っている子供達を乗せた。

そうして10人余りの子供達を預かって、駅から10分ほどの幼稚園まで連れて下さった。

帰りも電車に乗せてもらって、それぞれの駅で降ろしてもらう。

今の送迎バスのようなものだった。

プラットフォームには母かC子姉ちゃんが迎えに来ていた。

 

その内迎えに来てくれなくなって、一人で家まで歩いて帰るようになった。

ブログにもう何度も書いているけれど、家までの道は大変だったのだ。

幼稚園の制服は裾にフリルの付いた白いエプロンにセーラー帽。

幼稚園も無い村だったから目立った。

悪ガキが私を見つけると「ヨーチエン!」と叫ぶ。

叫ぶだけならまだ良いが、家の近くまで帰るとすぐ近所の悪ガキ兄弟の弟Sちゃんが玄関から飛び出して叩きにくる。

彼等兄弟は後に有名なラグビー選手になった。

ここのお母さんは怖くて(何しろ男の子ばかり5人いたから・・・)子供が悪い事をするとお仕置きに荒縄で縛って井戸に吊るした。

「お母ちゃん堪忍や。もうせえへん」と泣いて謝ってもそのまま吊るしておく。

 

彼らは幼稚園に通う私が許せなかったみたい。

私も好きこのんで幼稚園に通ったわけでは無い。

そやのに叩かれて、ええ迷惑やった。

私が小学校(当時は国民学校と言った)の1年生になっても、彼らは私を見かけると一斉に「ヨーチエン!」と野次るのだった。

自分たちも行きたかったのだ。きっと。

 

12月8日に日本が戦争を始めたので、毎月8日は「日の丸弁当」。

お弁当に憧れて幼稚園に入ったのに白いご飯に梅干しが真ん中にあるだけ。他のオカズは何もなし。(まだその頃は白いご飯が食べられた)。

母は梅干しにお砂糖をまぶして乗せてくれた。

普段もご馳走だったわけではない。

ソーセージやハムなど見たこともなかったし、卵も貴重品だった。

 

鰹節を削ってお醤油を混ぜたのをご飯にかけて焼き海苔の揉んだもの乗せる、猫飯。

後はお惣菜の残りなんかが入っていたのかな?

私は食べることに関しては好き嫌いのない子だったので、お弁当はいつも残さず食べたが、ある日、男の子のお弁当に南瓜の煮たのが入っていたけれど残している。甘えたの男の子だった。

すると藤野先生がお箸で摘んで口に運んで食べさしはった!

「おいしいかぼちゃ食べましょうね」と言って・・・。

これが羨ましかった。

「お母ちゃん、私にもお弁当に南瓜入れて~」

寒くなると部屋にあったストーブの周りの金網にお弁当を乗せて温めてくださった。

食べる前に歌う歌。

「良く噛めよ、食べ物を、噛めば噛むほど強くなる。

 母さま作ったこのお弁当頂く御恵み、神様ありがとう。

 イタダキマス」

母が選んで通わせてくれた幼稚園。たった1年だけだったけれど思い出が強く残っている。

 

つづく