朝刊で知った外山雄三先生の死去。
92歳だった。
5月の演奏会の途中で体調を崩されてついに天国に逝ってしまわれた。
私は40代の初めにベートーヴェンの第九が歌いたくて、C子姉ちゃんと一緒に堺の混声合唱団に入ったのだった。
年末には第九を歌い、夏にはミサ曲や外山先生作曲の合唱曲をオーケストラと一緒に演奏したのだった。
先生はプロの奏者(例えば練習ピアニスト)などにはとても厳しく怖くて、合唱団員には優しかった。
でも合唱団員にも演奏会は高いお金を払って聴きに来てもらうのだから、その姿勢は常に厳しいものを求められた。
「必ず指揮を見る」が鉄則。
だから長いミサ曲でも全部暗譜(楽譜を持たない)を求められた。
アマチュアは譜面を見ながら指揮を見ることは難しい、という理由だった。
指揮者としては天才的で、素人の集団を本物の音楽に仕上げるために、細かい配慮、きめ細かい指揮をして下さった。
手で出来ない時は目だけで「今アルト歌いなさい!」と合図を送って下さるのだ。
今朝、ニュースで訃報を知ったNさんが電話をして来た。
「夫に言っても反応がないから、ちょっと喋らせて・・」
いつも謡曲の稽古の帰りにうちに来て喋るのだけど、今朝のこの思いを今、私と話したかったみたい。
電話越しに、しばらく外山先生の思い出を語り合う。
ある夏は先生の作曲の原爆の歌を歌った。
Nさんは電話の向こうで「♬あゝ許すまじき原爆を~」って歌い出した。
う~む。
二人にとっては充実した懐かしい経験だった。
単なる子育てだけの主婦だった二人が、ようやく子供も大きくなって手が掛からなくなった。
ようやく家庭以外に情熱を傾けることが出来る年頃になっていた。
私にはまだ厳しい目を光らしている夫の義叔母が居て、内緒で綱渡りのように参加していたが、これはそのストレスを解消できる機会でもあった。
外山先生は晩年までしっかり歩いておられて立派だった。
最後にお目にかかったのはもう7年前になる。
今日、合唱団の友人たちもこの訃報に切ない懐かしい思いを抱いていることだろう。