a-dollのブログ

忘れたくない日々のあれこれの記録

母の形見

中学校時代の幼馴染Aちゃんは、この前会ったとき黒いおしゃれな帽子を被っていて、

「これお母ちゃんのやねん」と言った。

もう一人の友人A子ちゃんもニットのカーディガンを着ていて、

「亡くなった母のやねんわ」と言った。

ベージュの長めの洒落た物、どちらもよく似合っている。

彼女たちは二人とも長女だから母親は比較的若かった。

 

それに比べて私は4番目の女の子だから母とは36歳も離れている。

今年母は生誕124歳になる。

母は明治34年に大阪の天王寺区下寺町で生まれたから、その頃洋服はまだ誰も着ていない。

ちなみに当時すぐ近所に「織田作之助が住んでいた」という大阪の下町である。

母の若い頃の写真には「お歯黒」をつけているのもあった。

人妻になると歯を黒く染める習慣があったようだ。

今のネイルみたいな感覚だったのだろうか。

二人とも結婚したからか歯を黒く染めてお姉さんと仲良く並んでニッと笑っている。

 

日本髪を結って、元結で根元を縛る習慣から、頭頂が薄くなって母はいつも気にしていた。

私の知っている母は、もう日本髪ではなくて、長い髪を束ねて後ろでお団子を作って鼈甲のU字型ピン留めでしっかりくっつけていた。

いつも同じきちっとしたヘヤースタイル。

普段もよそゆきも和服だった。

だから「母のよ〜」と友人に自慢できる衣類は何もない。

母に買って貰った物は数多あるけれど。

 

彼女たちのお母様は大正生まれだろう。

大正モダンの頃で、若い女性はスカートを履いてベレー帽も被ったのだろうか。

 

Aちゃんのお母ちゃんは子供を産んでから夫を戦で亡くし、苦労をしておられる。

中学校の3年生の初めに「家が貧乏になってん」と言って家の近くの公立の中学校へ転校していった。

それでも途切れずずっと文通を続けた仲良しだ。(今はライン)

 

A子ちゃんのお母さんも早くに夫を失くし、夫の事業を受け継いで女社長として頑張っていられた姿を子供心に「格好ええな〜」と感じたものだった。

授業参観の時も洋装で素敵だった。

 

私には母の物は何も残ってない。

母が亡くなった後、姉妹で整理に実家へ行ったけれど、もうみんな和服は要らないと言う。でも私は欲ボケだから数枚もって帰ったけれど、結局着ることはなく処分してしまった。

 

そんなわけで、米寿の今に至っても、まだ残すのが良いか処分するか考え中なのだ。