a-dollのブログ

忘れたくない日々のあれこれの記録

「我が母の記」つづき

「我が母の記」つづき

お母ちゃんの思い出話は、何や知らんけど、だらだらと自分中心になってしまう。

母とはずーっと亡くなるまで親密だった(勿論父ともそうだったけど)から、言わば空気みたいで、母を書こうとしたら私がくっついて来てやっぱり自分の思い出に流れてしまうのだ。

私の母のことを知りたい人は辛抱をして読んで下さい。

 

まだ幼稚園の話・・・。

お誕生月にはお誕生の子のお母さん達が集まってお祝いの昼ご飯を作った。

園児全員がお遊戯室で「五目ずし」を食べる決まりだった。

12月のお誕生会には母が来た。

割烹前掛けをした姿が思い出される。

あんな美味しい「五目ずし」は無かった。

 

C子姉ちゃんは女学校を卒業して家事手伝いをしていた。

遠足の付き添いはC子姉ちゃんが母の代わりに来てくれた。

13才離れているから、私にとってお姉さんだけどお母さんの様に頼り甲斐があった。

C子姉ちゃんは和服を着て美しく、皆に自慢したい様なお母さん代わりだったのである。

 

年月が経って、私が家事手伝いの立場に有った時、兄の長女のAちゃんを実家で預かったことがあって、入園から1学期間だけ幼稚園への付き添いをした。

Aちゃんが通ったのは私の通った幼稚園だった。

藤野先生はまだいらっしゃった。

隣接している小学校のY先生と結婚なさってベテランの先生となっておられた。

「先生よろしくお願いします」とAちゃんを伴ってご挨拶をすると、私を覚えていて下さった。

「Kちゃんがもうお母さんになったかとびっくりした・・・」とおっしゃった。

小学校に通っている頃、何故か時々幼稚園に遊びに行ってたのだ。

 

この頃Aちゃんは私のことを「Kちゃん」と呼んだので「かあちゃん」と聞こえたらしく「えっ!お母さんですか?」と聞かれたことが有った。

私は老けて見えたのだ。

よそのお母さん達と会話が苦手なもので、無口でいたから静かなお母さんに見えたのだろう。

私が独身女性と知って縁談を持って来られた方もあった。

 

今、姪のAちゃんは私のことを「K子叔母ちゃん」と呼んでくれている。

未熟な私がお母さんの代役をして、練習台になってくれてAちゃんありがとう。

 

話が横に逸れたけれど、母はいつも家に居て娘達を思う様に使う司令塔だった。

私は家事手伝いという立場でお勤めにも行かず「花嫁修行」をしていた。

今思うとネーミングが馬鹿馬鹿しい。

結婚して家事をする上で役に立つことのレッスンに通った・・・ということだ。

今の若い人には理解しにくいと思う。

私の場合、中には役に立たない「踊りの稽古」とか「長唄」とか、

「お茶」や、「お花」も、「書道」も余り役立つとは思えず、万一未亡人になったら役立ったかも。

「洋裁のお稽古」は一番役立った。

当時は既製品というと「安物」のイメージが濃く、お誂えでないと駄目なので自分で気に入った服を作れるのは最高の喜びだった。

後は「お料理教室」。

でも包丁を研いで大根の桂剥きなんて余り役立ってない。

「和裁の稽古」はしなかった。

これには母の考えがあって、今に和服は廃れる、普段和服を着て出かけることは無くなるだろうから、洋裁が出来る方が得だと言った。

これは当たっていたけれど、結婚したら夫の叔母に「暇やろうから着物を仕立てなさい」と古い男物の反物を渡された。

「和裁は出来ない」と断ったら「和裁を習っとりゃせん?」とびっくりされた。

まだつづく