a-dollのブログ

忘れたくない日々のあれこれの記録

我が母の記 2

ラニュウムを植えた。

もう枯らさない。

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7月に「よしのお祖母ちゃん」の事を書いた。

彼女はエピソードが多くて描きたくなる人物なんだ。

このよしのお祖母ちゃんと、金澤出身の背の高い山上太四郎お祖父さんとが結婚して産まれたのが私の母。

母には姉ハツが居た。

父山上太四郎は早く病死をしたので、この姉が仕立て物をして生活を支えた。

手先が器用だったのだろう。

 

私の母も縫い物が好きだった。

デパートで銘仙の反物を買って来て私の着物を縫ってくれる。

先ず袖から縫うが、袷の袖が片方縫えたら「ほら見てみ~可愛らしいやろ?」と自分の手を通して眺めている。

呉服屋さんで買う着物は仕立ててもらっていたが、普段着は母が縫ってくれていた。

 

晩年の母は楽しみで縫っていたが、お姉さんは生活を支えていたのだ。

未亡人になったよしのさんは賄いの手伝いに、母は子守として雇われた。

小学校を出るか出ないかで働いた。

 

住み込みのお手伝いとして働いていた頃、そこの嬢(とう)さんの三味線のお稽古に付き添って通ったそうな。

嬢さんがお稽古の間じっと座って待っていた。

三味線のおっしょさんがある時「あんたも弾いて見るか?」と付き添いの母に弾かせてくれた。

母は、いつも黙って座って聴いていたので飲み込みが早い。

「筋がええ」とおっしょさんは、よしのさんに「内弟子に欲しい」と頼んだのだが、よしのさんは「うちの娘は三味線弾きなんかにさせとうはない」と断ったとか。

貧乏をしていてもプライドが高いのだ。

 

母は好きな三味線を弾くチャンスを失った。

だから後になって娘の私に長唄を習わせた。

私も嫌いじゃないから精を出してお稽古をした。

母はそれを見て楽しんだのだ。

そのうちに長唄のおっしょさんに「名取になりはりまっか?」と打診されたけど、母は「長唄の師匠になってどないしますねん」と言った。

もちろん私もそんな気はない。それで止めた。

それより小学生の頃「ピアノを習わして欲しい」と母にせがんだ時「あかん。あんたの手はピアノを弾くのには小さい」で終わったのが今でも悔しい。

姉や妹はピアノを習って、お嫁入りの荷物にピアノがあった。

私は三味線を誂えて持たせてくれた(ー ー;)

結婚して以来一度も弾かずに屋根裏に今もある。

「我が母の記」は悪口で始まったが、苦労をして青春を過ごした母にとって夢を娘に託したのだろう。

日本舞踊を習わされたのも同じ理由だった。

「手が小さいから踊りに向いている」と。

これも私は嫌いではなかったけれど、どっちかといえばバレーとかモダンダンスが好きだったのだ。

いやいや乍らも母のためにお稽古に通って名取になった。

それも全く今は活かされず実に勿体無いと思うけど。

つづく